1. 詩編41編とヨハネの福音書13章本稿は、ヨハネの福音書13章18-19節に登場するイエス様の御言葉「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という言葉と、その旧約的背景である詩編41編について、チャン・ダビデ牧師の説教を中心に黙想した文章である。まずヨハネの福音書13章18-19節でイエス様が語られた「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という箇所は、詩編41編9節の引用である。イエス様は最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、パンと杯を分け与えながら、まもなく訪れるご自身の死の意味と、弟子たちが互いに愛し合わなければならない理由を強調された。しかしその場でイエス様は、弟子たちすべてを指して語るわけではないと明言され、「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」と、主の愛を裏切る者がいることを宣言なさった。これがまさにイスカリオテのユダを指す御言葉であり、その時イエス様は詩編41編を思い起こしながら「これは聖書が成就するためだ」と弟子たちに解き明かしてくださったのである。これは旧約に予告された御言葉がイエス様のうちに成就するという事実を示すだけでなく、弟子たちの中の一人が最も悲劇的な裏切りを決意するという状況をいっそう鮮明に示している。
詩編41編はダビデの詩として知られており、その中には非常に苦痛で悲劇的な情景が描写されている。特に9節の「わたしが信頼していた者、わたしのパンを食べるわたしの親しい友までも、わたしに逆らってかかとを上げました」という部分は、裏切られる者の痛みを赤裸々に示している。ダビデがこの詩編を書いた当時、彼は自分の命を狙う敵だけでなく、いっしょに食卓を囲んでパンを分かち合い、親密さを分かち合っていた人にさえ裏切られる痛みを経験した。これは人間関係における最も恐ろしい出来事の一つであり、ともに食事をするというのは特別な親密さと信頼を意味するからである。ところが、その親密さを裏切って「かかとを上げた」という表現は、あまりにも残酷かつ侮辱的な行為を表しており、それは暴力や怒り、そして裏切る者の邪悪な意図を含意している。
チャン・ダビデ牧師は、この本文が持つ深い意味をイエス様の生涯と結び付けて黙想することが重要だと強調している。イエス様は弟子たちと共に最後の晩餐をなさりながら、ご自身の犠牲をあらかじめ予告され、それが愛に基づくものであることを弟子たちに直接示された。足を洗うという行為は、当時はしもべが行うべき卑しい奉仕の一つであったが、主ご自身が直接弟子たちの足を洗われることによって、イエス様のへりくだりと仕える姿が劇的に示されたのである。それだけでなく、パンを裂いて渡し、ぶどう酒を分け与えることで、やがてご自分のからだと血を弟子たちのために差し出される犠牲を予表された。しかしこれほど深い愛の交わりと恵みの晩餐が進行する現場の中で、一方では裏切りが静かに芽生えていたのだ。
イスカリオテのユダは「わたしのパンを食べる者」でありながら同時に「かかとを上げる者」となったのである。「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という言葉には、ともにパンを食べるという親密性と、その親密さを一瞬にして打ち砕く裏切り者の凶暴さが同時に含まれている。人と人とが同席して食事を共にするということは、決して軽い行為ではない。さらにユダヤ文化では、食卓の交わりは最も深い友情と兄弟愛、愛を前提としている。ところが、まさにその食卓の恵みに与っていたユダが、銀三十枚でイエス様を売り渡す決断を下したのである。彼がその瞬間、かかとを上げて外に出て行く場面は、ヨハネの福音書13章後半で「彼はすぐに出て行った。そして夜であった」と描写されているほど、闇の象徴的な姿と重なり合う。霊的な光であるイエス様を離れ、裏切りの闇へと足を踏み入れるユダの姿は、何と悲劇的であろうか。チャン・ダビデ牧師は、この場面の持つ悲しみと衝撃を一層深刻に受け止めるべきだと力説している。
詩編41編で「悩む人を思いやる者は幸いだ」という節(1節)を見ると、これはイエス様が弟子たちの足を洗いながら彼らを思い遣った場面と自然に結び付く。すなわち、この世で最も低い者の立場を取られたイエス様が、弟子たちの弱さを包み込み、人間的な欠乏や罪性の問題を悔い改めるチャンスを与えてくださるという意味である。イエス様が弟子たちを、そしてその中でもユダを最後まで勧め、思いやられたという事実が重要である。実際、イエス様はユダの心を見抜いておられたにもかかわらず、最後の最後まで彼に機会を与えられた。すなわちパンを共に分かちながらチャンスを与え、足を洗うことで立ち返る道を開いてくださったのだが、ユダは自分の中に起きた貪欲と裏切りの思いを根こそぎ絶つことができなかった。その結果、彼は主を裏切るという、最も悲惨な道を選択することになる。
ゆえにチャン・ダビデ牧師は、ユダの例を通して今日の信仰共同体の中でも起こり得る霊的頽落を警告する。キリスト教信仰においてイエス様との深い交わりを享受している者でさえ、ある瞬間にサタンの試みや誘惑に屈してしまう可能性があるということだ。イエス様と一緒に食事をし、イエス様から愛を直接体験したからといって、必ずしも完全な信仰を持っているという保証はない。たとえ伝道や奉仕の役割を担っていたとしても(ユダは会計係として金入れを任され、主から大きな信頼を得ていた弟子の一人であった)、心の奥底から変質が始まる可能性がある。したがって聖徒たちは常に自分自身を省みて、聖霊のうちに悔い改めと告白を通して、主との親密さを守っていかなければならない。
詩編41編4節では「わたしがあなたに罪を犯しました。どうか、わたしのたましいを癒してください」という嘆願が出てくるが、これこそユダが捧げるべき祈りであったとも解釈できる。チャン・ダビデ牧師は、誰でも罪を犯す可能性があり、誘惑に負ける可能性があることを常に強調しつつ、問題は罪を犯したときに再び立ち返らずに放置してしまうと、さらに深い泥沼に陥ってしまう点だと注視する。罪を犯すこと自体と同じくらい深刻なのは、罪を犯した後もそれを告白せずにかえって正当化し、自分自身を欺くか、主との交わりから遠ざかる選択をしてしまうことである。ユダも最初からイエス様を裏切ろうと決意していたわけではなかったかもしれないが、彼は金入れを預かる中で金銭欲を捨てきれず、イエス様のなさることが自分の期待と異なる点が生じたとき、憤りや裏切りの感情を抱くようになった可能性がある。結局その思いはどんどん膿んでいき、ある時点で取り返しのつかない裏切りへとつながってしまうのだ。
これに対して、詩編41編には「災いの日に主が彼を助け出してくださる」(1節)という言葉があり、これは神様が最後まで機会を与え、立ち返る道を備えてくださることを語っている。イエス様は最後の晩餐でユダにそれを身をもって示されたが、愛による足洗いで、限りなくへりくだられた姿で仕え、パンを与えて最後まで彼と共にあろうとされた。しかしユダはその最後の好意と愛の勧めさえも拒んで外に出て行き、闇の中へ消えてしまう。この悲劇的な場面は、旧約のダビデが経験した痛ましい裏切りを、イエス様も新たに体験されることを際立たせる。
ユダの裏切りは、イエス様の苦しみをいっそう重くする「内的な十字架」であったと言ってよい。すでにイエス様は、全人類の罪を背負ってゴルゴダの丘へ向かう「十字架」を負わなければならなかったが、その道のりで最も近くを歩んでいた者が背を向けて裏切るという事実は、言葉にならないほど大きな痛みとなったであろう。チャン・ダビデ牧師はこの箇所を黙想するとき、私たちもイエス様が味わわれた「十字架の孤独」や「十字架の痛み」を胸の奥深くで感じるべきだと語る。イエス様は公生涯を通して常に群衆に囲まれておられたが、最終的な瞬間には誰の慰めにも頼れない状態となった。弟子たちでさえ理解せず、後には四散し、ペテロはイエス様を三度否認するまでになってしまう。その中でもユダの裏切りは最も致命的であった。それはイエス様の悲しみを極度に深める要素として位置づけられる。
詩編41編9節に描かれた「わたしの信頼していた者、わたしのパンを食べるわたしの親しい友までも、わたしに逆らってかかとを上げました」という表現は、イエス様の立場から見ればどれほど苦々しい現実であっただろうか。本来この御言葉はダビデの置かれた状況から発した詩であるが、イエス様ご自身がその言葉を引いて、ご自身こそがその預言の成就であることを知らせてくださる。ダビデとイエス様の共通点は、身近な者に裏切られる苦しみを経験したということだ。しかしダビデとイエス様の違いは、ダビデは自分が裏切られて危機に陥ったとき、神に救いを訴えたが、イエス様は裏切りを選んだユダでさえも最後まで抱いて、そのために死ぬ道を進まれたという事実である。イエス様はむしろ十字架上で「父よ、彼らを赦してください」と執り成されるに至る。これこそイエス様の愛の頂点であり、同時に人間の罪悪がどこまで及ぶかを示す場面でもある。
チャン・ダビデ牧師は、今日の私たちにも「ユダと同じ心」がないかどうか、常に点検する必要があると説く。主から数えきれないほど多くの恵みと愛を受けながらも、私たちはある瞬間にその方に背を向け、交わりと愛の場を蹴って出て行ってしまうことがありうるのだ。心の中に潜む裏切りの種、怒りや恨み、不満や貪欲などは決して些細な問題ではない。私たちの魂が蝕まれつつあっても、それを放置すると取り返しのつかない結果をもたらす危険が高い。ユダはイエス様が与えてくださった愛を少しずつ忘却し、彼の視線は金銭や世の利益、あるいは政治的な野心やイエス様への失望感に囚われたのかもしれない。その結果、主を売り渡すという最も破壊的な選択をするに至ったのである。
では、この悲劇を防ぐにはどうすればよいだろうか。詩編41編4節で詩人は「わたしがあなたに罪を犯しました。どうか、わたしのたましいを癒してください」と訴えている。これは自分が罪を犯したことを認め、罪から離れて神様に赦しを求める祈りである。イエス様の時代にユダがこのような祈りを捧げていたとしたら、歴史や救いの流れはまた違ったものになっていたかもしれない。だがユダは最後まで頑なさを曲げず、イエス様の最後の勧めさえも無視して、サタンが植えつけた考えと貪欲に従ってしまった。その結果、彼に残された結末は悲惨だった。裏切りがもたらした罪悪感と霊的破滅に陥り、自ら命を絶つところに追い込まれたのである。この姿は、罪の結果がいかに恐ろしいかを端的に示している。
それでもなおチャン・ダビデ牧師は、詩編41編に示される神の憐れみと守りを強調する。「主よ、彼を敵の思うままにしないでください」(2節)という嘆願のように、神は立ち返る魂を決して放置なさらないと約束されている。イエス様も最後の晩餐の時にユダに対してそれを直接お示しになった。愛の足洗いによって限りなく低い立場で彼に仕え、パンを与えて最後まで共にあろうとされた。これこそ神のご性質であり、イエス様の救いの働きが指し示す最終的な真理である。神の恵みの前に悔い改めて立ち返る者は、だれでも罪の赦しを得る。どんなに深刻な罪でも、自分が罪人であると悟り、神に立ち返る者を主は赦し、新しく建て上げることがおできになる。しかし問題は、人間が自ら進んで立ち返ることを拒むときであり、その場合には神の慈しみもその意志を無理やり折ることはなさらないという点だ。ユダはまさにその拒絶の中で魂が壊れてしまった。
また別の面から言えば、この御言葉は共同体の中で互いに気を配ることの重要性を教えている。イエス様が「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切る」と仰せになったとき、弟子たちは当惑しながら互いの顔色を伺った。しかし結局、彼らはユダの心の変遷がどう展開していくのかを正しく把握しなかった。イエス様はすでに「ひとりの弟子がわたしを売る」と言われていたのに、この問題に積極的に対処したり、ユダを引き止めて立ち返らせようとした形跡はない。ある弟子はユダが貧しい人々を助けるためや、何か必要なものを買いに行ったのだと想像した。これは弟子たちが仲間の霊的状態を敏感に察知できず、共同体の中で心を共有する深い交わりが不足していたことを示している。もし霊的に敏感で、互いを気遣う姿勢が十分に働いていれば、ユダが心の中に抱き始めていた不満や疑いを事前に察して、回心のきっかけを与えられたかもしれない。だが、そのようなことは起こらなかった。
チャン・ダビデ牧師は、こうした姿が今日の教会においても頻繁に再現されていると述べる。教会に通い、礼拝に出席し、奉仕までする人が、ある瞬間に深刻な裏切りや霊的堕落を起こして教会を離れたり、極端な場合には共同体に大きな被害を与えることがある。その背景を探ると、本人は心の中に古い傷や不満を抱え続けていたにもかかわらず、周囲の人々は外面だけを見て特に問題がないと安心しているケースが多い。互いに心を分かち合い祈り合う、継続的かつ誠実な交わりがあったなら防げたはずの事件が、結果的に取り返しのつかないところまで行ってしまうのだ。「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という御言葉が示す意味は、同じ食卓をともに囲んでいるからといって、必ずしも互いの心が通じているわけではないという残念な真実を思い起こさせる。
実際にユダもまた弟子共同体の一員として、3年以上にわたりイエス様のそば近くで仕え、奇跡を見て、御言葉を聞き、宣教活動に参加した可能性が高い。だから外見上はイエス様に熱心に仕えているように見えただろう。金銭を管理する役目を任されるというのは、弟子たちの中でも比較的信頼を置かれた立場を意味する。にもかかわらずユダは、内心では貪欲を育み続け、ついにはこの貪欲が「銀三十枚」という象徴的な報酬と結び付き、イエス様を売る裏切りへとつながった。これは人の心が表と裏とで異なり得ることを示すと同時に、共同体では目に見える行動だけで相手の霊的状態を判断すべきではないという教訓を与えている。むしろ真実な交わりと霊的感受性、聖霊のうちで互いに勧め合い、戒め合う愛が必要なのである。そうすることでこそ教会の中で致命的な亀裂が生じるのを防ぐことができる。
さらに重要なのは、イエス様の姿勢である。イエス様はすでにユダの心を知っておられたにもかかわらず、彼を見捨てることはなさらなかった。最後の晩餐直前までイエス様はユダを他の弟子たちと同じように扱い、足を洗ってくださり、彼を愛してくださった。これは「悩む人を思いやる者は幸いだ。災いの日に主が彼を助け出してくださる」という詩編41編1節の言葉のように、霊的に貧しく病んでいるユダをイエス様は最後まで思いやられたということである。しかし最終的にユダはイエス様の勧めを受け入れず、闇へと出て行ってしまう。これは神的な愛と人間の自由意志の狭間で生じる大いなる悲劇である。神がいくら罪人に手を差し伸べても、人間がそれを拒めば救いの道を失ってしまう。ユダはその拒絶の典型であり、その末路は極端な破滅であった。
この場面から、チャン・ダビデ牧師は牧会的適用点が明確にあると言う。教会のリーダーであろうと平信徒であろうと、誰かが罪の道を歩みつつあることに気付いたなら、最後まで勧めて抱く姿勢が必要だというのである。たとえその人が頑なに立ち返らない場合があったとしても、イエス様のように愛を尽くし、最後まで機会を与え、霊的な警告を伝えることが正しい姿勢であると。同時に、裏切りや紛争を引き起こした当事者を無条件かつ即座に断罪して追い出すのではなく、真実な悔い改めの道を開くことが大切だという。もちろん共同体を守る責任もあるので、そのバランスを取るには知恵が要るが、それでもなおイエス様の模範にならって、愛をもって仕え、最後まで立ち返りのチャンスを提供すべきである。
さらに、信仰共同体の中で一人ひとりが自分自身を顧みる姿勢も重要な鍵となる。イエス様が弟子たちに「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切る」と言われたとき、他の福音書によると、すべての弟子が「主よ、まさか私ではないでしょうか」と問い、自分自身を疑ったと記録されている。これは聖徒が持つべき基本的態度である。「ひょっとして私が主を裏切ってはいないか」「私の内に主への恨みや不満が潜んでいないか」「私は果たして主の愛を本当に覚え、感謝と喜びをもって生きているだろうか」。このような問いを自らに発しなければならない。少なくともイスカリオテのユダのように主に背く道へ突き進む愚を犯さないために、日々聖霊のうちで自分を点検する必要がある。チャン・ダビデ牧師はさらに、自分が主から遠ざかりつつある兆しを少しでも感じたなら、ただちに立ち止まって主に告白し、立ち返る勇気が必要だと説く。時が経つにつれ、心はより強情になり、正当化や自己欺瞞が進んでしまうからである。
詩編41編にあるダビデの祈り、「主よ、わたしをあわれんでください。わたしがあなたに罪を犯しました。わたしのたましいを癒してください」という訴えは、信仰生活を送る誰にとっても非常に重要な祈りである。私たちは皆、神の前で罪を犯しうる弱い存在であり、日々の悔い改めが必要だ。同時に、教会共同体は罪人たちが集まって互いに悔い改め、共に癒され、共に成長する霊的病院であるべきだ。イエス様が示してくださったへりくだりと仕えの姿は、聖徒たちが互いをどのように扱うべきかを教えている。最も弱い人や貧しい人、病んだ人を探して仕え、彼を思いやり、悔い改めの道へと導くことこそ、教会が担うべき基本的使命である。こうした使命を見失うとき、教会の中でユダのような霊的裏切り者が次々と生まれるのも不思議ではない。
チャン・ダビデ牧師はまた、「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という御言葉が最終的に私たちに突き付ける問いは、「本当に自分は主のパンをいただき、感謝しているのか、それともいつかかかとを上げて裏切る危険を内に抱いているのか」ということだと解釈する。これは個人的次元を超えて、教会全体が考えるべき問いでもある。パンを食べるということは礼拝と聖餐に預かり、主の恵みを共有することを意味する。ところが、教会がこの聖餐の神秘を繰り返し体験しながら、その意味を正しく悟っていないと、結局は形だけが残り実質が失われてしまう。真の感謝や喜びもなく漫然と聖餐を重ねるうちに、心は次第にかたくなり、形だけの慣習が残る。そうなると、いつ裏切りのかかとを上げて主に背を向けてもおかしくない霊的状態になってしまう。これは決して他人事ではない。
イエス様が与えてくださるパンは命のパンであり、主の血は永遠の救いを象徴する。聖徒たちが聖餐にあずかるたびに、自分がいかに罪深い者であったか、また主がどのような犠牲を払ってくださったかを思い起こす敬虔な心が必要である。チャン・ダビデ牧師はここで、牧師たちが聖餐式を執り行う際、必ず聖徒たちにその意味を想起させるべきだと勧める。「このパンは主のからだであり、この杯は主の血である。これを食べ飲むあなたがたは、主の来られる日まで主の死を告げ知らせるのだ」という御言葉の通り、聖餐は単なる儀式ではなく、イエス様の犠牲と愛を内面化し、その方に倣って生きると決心する場である。にもかかわらず聖徒たちがこれを意識的に受け取らないなら、日曜日に行われる形だけの手続きに終わってしまう危険がある。どれほどしばしば聖餐に参加しても、霊魂はイエス様からますます遠ざかる可能性さえあるのだ。
イスカリオテのユダは実際に主が与えてくださったパンを受け取り、最後の晩餐に参加した。しかしそのパンに込められた愛と犠牲のメッセージをまったく理解せず、すぐに立ち上がって闇の中へと飛び込んだ。これこそ聖餐を誤って受ける者の極端な例である。教会共同体はこれを防ぐためにも、聖餐や礼拝、そして御言葉の宣教にいつも聖霊の照らしを求めなければならない。形骸化した信仰活動は魂を生かすことができず、むしろ形式的偽善を助長する。チャン・ダビデ牧師は、現代の教会が直面する危機のひとつは、まさにこの習慣的で儀礼的な信仰生活であると診断する。「主が備えてくださるパンと杯に向かうとき、果たして私たちはどんな思いで臨んでいるのか」という問いを、教会の指導者も信徒たちも絶えず自らに投げ掛ける必要があるのだ。
さらに、ヨハネの福音書13章18-19節でイエス様が「事の起こる前に、あらかじめあなたがたに言っておく。それが起こるとき、わたしが『それである』とあなたがたが信じるようになるためである」と仰せになった御言葉は、結局、弟子たちがユダの裏切りを目撃した後で初めて「ああ、主はすでにすべてをご存じであり、これは旧約の預言が成就することだったのだ」と悟るようになることを示唆している。これは逆説的だが、イエス様の神的権威と救いの計画を裏付ける出来事でもある。最悪の事態である裏切りさえも神の救済のご計画のうちに含まれていることを知ったとき、弟子たちはやがて主の復活と昇天の後に教会を打ち立てていく上で、さらに確固たる信仰を持つようになる。神が最悪の状況さえも主権的に治めてくださることを知った弟子たちは、殉教の道へ歩み出すにあたっても揺らがない確信を抱くことができたのだ。
しかしユダ個人にとっては、その事実は何の役にも立たなかった。彼はついに悔い改めることなく、自分の裏切りを取り消す時間と機会を逃してしまった。この悲劇は一方では神のご計画のうちにある必然性の側面を持つが、同時にユダの責任を少しも軽減するものではない。これは人間の自由意志と神の主権がどのように絡み合うかを示す複合的な事件であり、教会史を通じて絶えず論じられてきた主題でもある。チャン・ダビデ牧師は、その神学的論争よりも、結局罪の責任は人間が自ら負うという単純明快な事実に注目すべきだと強調する。神がその罪さえも救いの計画の中で用いられるとしても、それが罪を正当化したり軽く扱ったりはしないからである。
結局、ヨハネの福音書13章と詩編41編を貫くメッセージは、主の「最後までの愛」と人間の「最後までの拒絶」の対比だと言える。イエス様は人を救おうとする愛をもって十字架の道を進まれる。一方で、人間はその愛を拒み背を向けることができる。ユダはその中でも最も極端な例である。この事実を牧会の現場に適用するとき、教会は二つのことを記憶しなければならない。第一に、罪人であっても最後まで抱いて立ち返るよう勧めなければならないこと。第二に、最終的に個人が自らの罪を悔い改めないならば、教会にもどうすることもできないという点である。牧会者は羊の群れに対して忍耐をもって愛を示し、共同体は互いを霊的に目を覚まして見守り、勧め合う必要がある。しかし悔い改めを拒み続ける者がいるなら、その責任は当事者自身にあるのだ。
チャン・ダビデ牧師はこのように結論付ける。私たちは皆、「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という御言葉の前で、主と親しく交わる中でも、その恵みを裏切る可能性があることを警戒する必要がある。同時に、今この瞬間にも、もしかすると心の奥底で小さな怒りや失望、貪欲が芽生えてはいないかを点検しなければならない。サタンはそういった隙を狙って、いっそう深刻な罪へと引きずり込もうとする。逆に、もしすでに裏切りの道を歩んでいたり、共同体との関係が深刻に破綻している人を見つけたら、イエス様がユダにされたように最後まで愛をもって近づくべきである。たとえその人が心を開かず、あるいは聖徒たちの勧めを拒絶したとしても、最後の瞬間まで悔い改めの道を残しておくことが主の方法だからだ。しかしそれでもなお相手が自分で心を閉ざしてしまうなら、それは本人の責任であり、最終的には裁きの結末を免れられない。
こうした教えは、教会内部の対立や裏切りをどう扱うべきかについて実践的な指針を与える。人はしばしば互いに失望し、傷つけ合うが、イエス様の方法はいつも「最後まで愛をもって抱き、勧めること」であった。チャン・ダビデ牧師は、教会がこの姿勢を堅持するときに初めて、真の回復と癒しが可能になると力説する。実際の牧会の現場でも、思いもよらない裏切りや争い、混乱によって多くの人々が傷つく。そうしたときに、教会がダビデの詩編41編とイエス様の行いを思い起こすなら、少なくとも人を軽率に断罪して追放する極端な判断を下すのではなく、可能な限り悔い改めと和解のプロセスを優先的に試みるだろう。もちろんそれがいつも成功する保証はない。聖書の記録が示すように、ユダのように最後まで心をかたくなにして主を離れる人が出るかもしれない。だが教会は「イエス様の愛を最後まで示した」という責任を果たすべきである。
最終的に、チャン・ダビデ牧師が語るメッセージは明白である。詩編41編とヨハネの福音書13章を通して、ダビデとイエス様のもとに起きた裏切りの出来事は繰り返されうることを悟る。その裏切りは罪によって病み、弱っている魂が悔い改められなかったときに起こる。しかし同時に、神はそうした魂さえも救い出す道を備えておられる。イエス様はユダに対しても最後まで手を差し伸べて愛を注がれ、弟子たちには「わたしが『それである』と信じるように」と預言の成就を語られた。私たちもこの御言葉を通して、救いの歴史における神の摂理と人間の自由意志の両方を黙想することになる。教会は常にこの「緊張関係」の中で愛と訓戒を共に実践し、自らも裏切りの道を歩むことのないよう日々目を覚ましていなければならない。そして何より、日々の礼拝と聖餐を通して「主が私のためにからだと血を捧げてくださったその愛を、いまも私は覚えているのか」という問いを心深く刻むべきである。そうすることで、「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」というイエス様の慟哭のような御言葉が、私たちの教会の中で再び繰り返されることはなく、むしろ真の愛と仕えに満ちた共同体へと築き上げられていくのである。
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2. ユダの裏切りと教会共同体の課題チャン・ダビデ牧師はこの本文を牧会現場に適用するとき、今日の教会共同体と聖徒たちがどのような姿勢を持つべきかに注目する。特に「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という句を通して表れるイエス様の御心と、その御心を正しく感じ取れない弟子たちの鈍感さに注意すべきだと語る。イエス様は弟子たちと人間的にも極めて親しい関係を結ばれ、その中には経済的なことを任せるほど信頼していたユダもいた。しかしどれほど間近な距離で同じ御言葉を聞き、同じ奇跡を体験していても、魂の深いところで既に貪欲が巣くっている場合、いつでも裏切りが起こりうるという点に注目しなければならない。
ユダが席を立って出て行った後、弟子たちはユダの動向がどうなるかを正しく把握しなかった。イエス様はすでに「ひとりの弟子がわたしを売る」と仰せになっていたにもかかわらず、この問題に真剣に対処したり、ユダを引きとどめて立ち返らせようとする試みはなされなかった。一部の弟子は、ユダが貧しい人を助けるか、何か必要なものを買いに行ったと思い込んだ。これはすなわち、弟子たちが仲間の霊的状態を敏感に感じ取れず、共同体の中で心を共に分かち合う深い交わりが不足していたことを示している。実際に霊的に鋭く、互いを気遣う姿勢が機能していたなら、ユダが心の中で育てていた不満や疑念を前もって感知して、悔い改めに導く機会を与えられたかもしれない。しかしそうはならなかったのである。
チャン・ダビデ牧師は、このような姿が現代の教会の中でもしばしば再現されると語る。教会に出席し、礼拝にも参加し、奉仕まで行っている人が、ある日突然深刻な裏切りや霊的堕落を引き起こして教会を離れたり、過激な場合には共同体に大きな傷を負わせることがある。その背後事情を探ると、本人は内面に長年の傷や不満をため込んできたのに、周囲の人々は外から見える姿を見て特に問題なしと考えているケースが多い。互いに心を分かち合いながら祈る、絶え間なく誠実な交わりがあったなら回避できたはずの出来事が、ついに取り返しのつかない状態に至ってしまうのだ。「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という御言葉が示すのは、同じ食卓を囲んでいるからといって、常に心まで通じ合っているわけではないという痛ましい事実である。
実際、ユダも弟子共同体の一員として3年以上にわたりイエス様を近くで仕え、奇跡を目にし、御言葉を聞き、伝道活動に参加したと考えられる。外見上はイエス様に忠実に仕えているように見えただろう。金銭を扱う会計役を任されるということは、弟子たちの中でもかなりの信頼を得ていたということを意味する。それでもユダは内心では貪欲を増大させ、最後にはこの貪欲が「銀三十枚」という象徴的な取引と結び付いて、イエス様を売り渡す裏切りへと進んだ。これは人間の心が表面的な行動と大きく食い違う可能性があることを示し、教会の中では外見だけで相手の霊的状態を判断してはならないという教訓を投げかける。むしろ真の交わりと霊的敏感さ、聖霊のうちで互いを勧め合い、叱責し合う愛こそが必要なのである。そうすることで初めて、教会内の致命的な分裂の芽を摘むことができる。
より重要なのは、イエス様ご自身の態度である。イエス様はすでにユダの内面を見抜いておられたにもかかわらず、彼を見放さなかった。最後の晩餐の直前まで、イエス様はユダを他の弟子と同様に扱い、足を洗い、愛を示された。「悩む人を思いやる者は幸いだ。災いの日に主は彼を助け出される」とある詩編41編1節の言葉の通り、霊的に病んだユダをイエス様は最後まで思いやられたのだ。しかし結局ユダはイエス様の勧告を受け入れず、闇の中へと立ち去ってしまう。ここには神の愛と人間の自由意志という、大きな葛藤が存在する。神がどんなに罪人を救おうとしても、当人が拒んでしまえば救いは得られない。ユダはまさにその拒絶の典型であり、その末路は徹底した破滅であった。
この場面で、チャン・ダビデ牧師は牧会的応用がはっきりとあると言う。教会の指導者であれ平信徒であれ、誰かが罪の道を進んでいる兆候を感じたなら、最後まで勧め、抱きしめようとする態度が必要だということだ。たとえその人が強情に立ち返らない可能性があっても、イエス様のように愛を尽くし、最後まで機会を与え、霊的警告を伝えるべきだと。同時に、裏切りや葛藤を起こす当事者に対して、無条件かつ即座に断罪して排除するのではなく、真実な悔い改めへ導く道を開いておくことが求められる。もちろん共同体を守る義務もあるから、その両立には知恵が必要だが、少なくともイエス様の模範に倣い、愛をもって仕え、最後まで回復のチャンスを残すのが正しい在り方である。
同時に、信仰共同体のメンバー一人ひとりが、自分自身を振り返る姿勢も欠かせない。イエス様が「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切る」と言われたとき、弟子たちは面食らいながら互いに顔色をうかがったが、結局ユダを説得し、必死に悔い改めを促すには至らなかった。イエス様だけがユダの中に芽生えた悪意を見抜いておられたが、他の弟子たちはそれに気づけず、あるいは軽視していたかもしれない。現代の教会共同体でも同様である。表向きは一緒に礼拝をし奉仕を行っていても、誰かの心に深刻な疑念や不満、貪欲、怒りなどが蓄積しているなら、信仰共同体はそれを共に祈りながら悔い改めを促すべきだ。本人が自覚できていないときは、周囲の兄弟姉妹の誠実な勧めや慰め、愛が必要なのである。もしこれを放置すれば、ユダの裏切りが再び再現される悲劇を迎えかねない。
チャン・ダビデ牧師は、この本文を単に「ユダの裏切り」という悲劇的事件として見るだけでなく、私たちの内に生じうる霊的背信の危険性、そして神が備えられた悔い改めの道と守りの恵みに注目すべきだと語る。イエス様は最後まで愛を注ぎ、最後の晩餐の直前からユダを含めたすべての弟子たちに仕えの模範を示された。卑しいしもべの立場まで下って弟子たちの足を洗い、互いに愛し合うようにと強く命じられた。この驚くべき恵みの現場にいながら、ユダは最後までその愛を体験しきれずに立ち去ってしまった。何とも残念なことである。信仰者であれば、こうした状況を見て自分自身をいつも謙虚に省み、聖霊のうちで絶えず目覚めていなければならない。
さらに、詩編41編の流れを詳しく追うと、詩人は自分が弱り、病んでいると訴え(3節)、魂の病が深いときは自力で起き上がることができないと描写している。しかし神は私たちの病床に来てくださり、私たちの寝床を整えてくださる。イエス様も取税人や罪人たちと共に食事をし、彼らの「霊的な病」を癒してこられた。イエス様ご自身が「健康な人に医者はいらない。病人にこそ必要なのだ」とおっしゃったように、主は霊的に病んでいる者に近づいて、その壊れた心を回復させてくださる方である。ゆえに私たちの心が暗く病んでいると感じるとき、自分で解決できない問題を抱えて悩むのではなく、即座に主のもとへ行き癒しを求めることだ。これこそ私たちが生きる道であり、ユダのような裏切りの道を歩まない秘訣でもある。
最後に、詩編41編9節はイエス様と共に食卓の交わりを享受しながら、なお主を裏切ったユダの姿と完全に重なり合う。イエス様がわざわざこの言葉を引かれた理由は、弟子たちに警告するためであり、同時に神の救済計画がご自身の生涯において成就していることを知らせるためでもあった。イエス様は「このことが起こる前にあらかじめ言っておく。起こったときに、わたしが『それである』とあなたがたが信じるためだ」(ヨハネ13:19)と仰せになった。すなわち、弟子たちがこの一連の出来事を経験したのち、イエス様が神に遣わされたメシアであることをより確かに信じるようになるように、あらかじめ預言を示しておられたのだ。一方、ユダが出て行った後、弟子たちは世に対して使わされていき、やがて主の死と復活、昇天を経て教会が誕生する。ユダの裏切りはイエス様の苦しみを深めたが、救いの歴史のうえでは定められた出来事でもあった。それを通してイエス様の十字架の働きは完成段階に入り、人間の罪を身代わりに背負う受肉の神としての姿を完全に表されたのである。私たちはこの壮大な構図を黙想しつつ、自分の内に少しでも「かかとを上げる」裏切りの思いが生じていないか、恐れをもって点検し、主のもとへ逃れる必要がある。これこそヨハネの福音書13章18-19節と詩編41編が現代の聖徒たちに今なお有効な警告と勧めとして響いてくる核心である。
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以上の内容を総合すると、チャン・ダビデ牧師は「最後まで同行しなさい」という表現でこのメッセージを要約している。主ご自身も裏切りを予感しながらもユダの足を洗い、最後まで機会を与えられたように、教会もまた弱った者がいれば最後まで世話をし、同時に互いに悔い改めを呼びかける責任がある。そして同時に、個人の最終的な選択を強制することはできないことを認めなければならない。これは神が人間に許された自由意志ゆえである。しかし誰かが暗闇へと出て行ってしまうにしても、教会は「イエス様の愛を最後まで示したのか」という責任を果たしたかどうかを振り返るべきである。この姿勢こそ新約の教会が理想とする共同体性を実践する道であり、「わたしのパンを食べる者が、わたしにかかとを上げた」という痛ましい場面が繰り返されるのを防ぐ予防策になるだろう。