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敵であったときに明らかになった十字架の愛 張ダビデ(チャン・ダビデ)牧師

1. 私たちが「敵」であったときに、御子の死によって確証された神の愛

張ダビデ牧師が強調するように、ローマ書5章6〜11節は、罪と救いについて語るパウロの教えの中でも、特に「罪人であったとき」「敵であったとき」という表現を通して、神の愛がいかに驚くべき逆説を含んでいるかを示す重要な箇所である。パウロはローマ書1章18節から3章20節まで、人間の罪深い姿と神の怒りのもとにある人間の実存を描写する。その後、3章21節から4章25節にかけて「信仰による義(イシンチンギ、Justification by Faith Alone)」、すなわちキリストの義によって私たちが義とみなされる福音を説き明かす。そして5章以降では、救われた者の実存と「聖化」のプロセスを扱いながら、とりわけ5章6節から11節において、パウロは「弱かったとき、罪人であったとき、敵であったとき」に私たちのために死んでくださったキリストの愛を通して、神が私たちに施してくださった救いの大きさと不思議さを宣言するのである。

私たちがまだ弱かったとき--私たち自身にはどうすることもできず、どんな力をもってしても自力救済が不可能であったあの時(ローマ5:6)、「定められた時(in due time)」にイエス・キリストは不敬虔な者たちのために死んでくださった。ここで言う「定められた時(ガラテヤ4:4、エペソ1:9参照)」という概念は、「時が満ちた」という意味合いともつながり、人類が文明や制度を築き上げ、自らの傲慢と自己義を積み上げた末に、結局魂の痛みだけが深まったその時点で、神は質的転換をもたらすために直接御子を送ってくださったことを示している。張ダビデ牧師は、ここで「私たちの霊的状態が完全に弱く、無力であった状況」で主の愛が臨んだという点を強調する。それはまさに人間が必死に「神の救い」を渇望せざるを得ないカイロス(Kairos)の時なのである。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神はご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。張ダビデ牧師はこの箇所を解説し、キリストの死こそが神が私たちに向けた「ご自分の愛」を確かに示す出来事であると強調する。世の中でいう愛は、多くの場合「愛されるに値する対象」に向けられやすい。しかしパウロは「正しい人のために死ぬ人はほとんどいないだろうし、善人のためなら敢えて死ぬ人がいるかもしれない(ローマ5:7)」と述べる。正しい人や善人とは異なり、敵や罪人のために命を投げ出す行為は、理性的にも経験的にも不可能に思える。しかしそれにもかかわらず、キリストは不敬虔な敵のためにいとわず死なれ、その死を通して神の愛が確証されたというのである。

ここでいう「敵」という表現は単なる感情的な反感にとどまらず、創造主なる神に対する根本的な反逆・不従順、さらには人間が築き上げた世俗文明の不敬虔さを象徴している。神を拒む文化に満ちた世界は、傲慢と自己義、不信仰の中で何事も自力で解決しようとしながらも、結局さらなる絶望に陥ってしまう。こうした神への敵意に満ちた世界に対して、神は逆説的な愛をもって敵を救おうとし、御子を差し出す道を選ばれた。張ダビデ牧師はこれを「神の無条件かつ逆説的な愛」と呼んでいる。

パウロが特に注目するのは、キリストが「死なれた」という事実である。命を投げ出すことは、自分の存在自体を非存在化するも同然だ。人間にとって死ほど大きな恐怖はなく、全てを失う最終的な破滅である。しかしイエスは、その死をもって「敵のためにご自分の命を差し出す」究極の愛を示された。だからこそパウロは「私たちがまだ罪人であったとき」にその死があったゆえに、神の私たちへの愛は「確証された」と高らかに宣言する。ここには否定しようのない神の憐れみが込められている。張ダビデ牧師は、どんな世の理屈や理性もこの「死によって示された愛」に打ち勝つことはできないと言い、これこそ福音の本質であり最大の力であることを重ねて強調する。

この愛は、ヨハネの福音書3章16節「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」という御言葉とも正確に一致する。表現はパウロとヨハネで異なるが、結局キリストの死とその犠牲の中に、神の大いなる愛と救いの道が現れているのだ。死んで当然の罪人が義とみなされ、もはや敵ではなく神と和解するようになった(ローマ5:10)のは、キリストの贖いの犠牲なしには到底あり得ない恵みである。張ダビデ牧師は、この点こそ私たちが生涯忘れてはならない福音の核心、「罪人の私のために主が死んでくださった」という事実であると説く。人間がどれほど神に逆らい、嘲っても、主がへりくだって十字架で死なれた事実を知るとき、私たちは初めて神のアガペー(Agape)の愛がどのようなものであるかを悟るのである。

また張ダビデ牧師は、イエスが教えられた「敵を愛しなさい」という黄金律(マタイ5:43-48)にもつなげて解説する。律法は「自分に良くしてくれる人に善を報いる」程度を基準としているが、イエスは「あなたがたを迫害する者のために祈りなさい」と命じられた。これこそ神の完全性にあずかる道であり、主の死によって最も明確に示された愛のあり方だ。世の自己中心的理性とはまったく異なる、まったく新しく高次な愛が十字架で具体的に示されたのである。だからこそパウロが語る和解(reconciliation)は、「迷える者を探し出す」神の一方的な犠牲から始まるのだ。

このように罪人のために死なれた愛を目の当たりにすることで、私たちは自己憐憫や絶望から解放され、「救いの喜び」の中へと導かれていく(ローマ5:11)。神が私たちの罪を赦し、さらに進んでご自分の子どもとしてくださった恵みに気づくとき、福音の真の力が私たちの生を動かし始める。張ダビデ牧師は、これこそ教会の礼拝と信仰生活の核心であると説き続けている。すなわち「主が私のために死なれた」という事実を繰り返し思い起こし、その恵みを具体的な生活の中で適用し、さらに宣べ伝えていくこと--それこそが信仰の道なのだ。

このすべての福音の土台は、「敵であったとき」に示された神の愛にある。私たちが受けた救いは、どんな制度や倫理的教えによって漸進的に得たものではなく、完全にキリストの十字架の血、すなわち「宝血」によるものである。そしてそれは一回限りの出来事でありながら、同時に私たちの日々の生活を根底から変革する力でもある。張ダビデ牧師はこれを「キリストの宝血がもたらす驚くべき逆説の力」と呼び、この福音を聞くたびに私たちの心の奥底から感謝と喜び、そして悔い改めと決断が湧き上がらねばならないと強く訴える。

パウロが「城門の外で苦難を受けられたイエス」(ヘブル13:12-13)に言及し、私たちもその恥辱を負って主のもとへ行こうと強調しているように、十字架はただ「救われた」という神学的文句だけで簡単に要約できる真理ではない。それは神が罪人に対して示される姿勢--すなわち無限の愛と憐れみ、そして赦しのご自身の現れである。そのようにご自分を差し出されたイエスの死を仰ぐとき、私たちは最終的に「ここに愛がある」(第一ヨハネ4:10)という告白に至らざるを得ない。張ダビデ牧師はこの聖句をしばしば引用し、神の愛が「言葉だけでなく実際の行動によって確証された出来事」であることを力説する。教会がこの確証された愛を握りしめ、世を仕え、隣人を赦す実践へと進むときこそ、福音の真の力が現れるのだという。

ゆえに第一の小主題で結論的に私たちが見据えるべき核心は、「敵であった罪人のために死んでくださったキリストの愛こそが神の愛の結晶」であるという点である。罪人には「愛されるに値する」いかなる資格もないが、そこにかえって転覆的な恵みが介入し、救いがもたらされる。張ダビデ牧師は、これを「教会が最も大切にすべき出発点」と呼ぶ。私たちの礼拝と聖化はこの始点--「罪人の私のために死んでくださった主」を常に胸に刻むところから出発すべきであり、それが神に真実に出会う道なのだと教えている。

 


2. 和解の供え物となられたイエスキリストと私たちの生の

 

ローマ書5章10節は「もし私たちが敵であったとき、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちはなおいっそう、御子のいのちによって救われるのです」と宣言する。張ダビデ牧師はこの本文を中心に、イエス・キリストの死が一回限りの「死」で終わるのではなく、その復活のいのちによって救いの完成を味わうようになる点を強調する。神の御子が和解のいけにえ(和解の供え物)となり、罪の壁を打ち壊してくださったゆえに、私たちはもはや「裁きを受ける罪人」ではなく「神の子ども、神の友」とされたのである。そしてそれは単に関係の回復にとどまらず、具体的で現実的な生活の転換をもたらす。

和解(reconciliation)はパウロの福音全体における主要テーマの一つである(第二コリント5:18-19参照)。律法によっては義とみなされえなかった罪人が、ただイエスの血の功績によって神に近づくことができるようになり、さらに受け入れられ、愛される存在となるということだ。しかし張ダビデ牧師によれば、この「和解」は単に「救われた、それで終わり」という話ではない。パウロは5章11節で「そればかりでなく、和解をもたらしてくださった私たちの主イエス・キリストによって、神を喜んでいるのです」と高らかに告げる。これは「霊的な喜び」と「生きた礼拝」を伴うという意味だ。つまり、罪人の地位から解放され義とされた私たちが進むべき新たな道は、昨日までの罪と裁きから解放されるだけではなく、神をまことに礼拝し喜び楽しむ生へと導かれるということである。

張ダビデ牧師は、この点について、救いは単に地獄からの「消極的意味での脱出」ではなく、「神のうちにあって喜び楽しむ」という「積極的意味での満ち溢れる生」なのだ、と繰り返し強調している。ローマ書5章1節から5節でもすでに、患難の中であっても喜ぶことができ、希望のうちに忍耐することができる理由は、「神の愛が私たちの心に注がれているから」だとパウロは語る(ローマ5:5)。こうして罪と死の法を突き破って新しいいのちの法に生きる者は、キリストの血によって義とされただけでなく、「そのよみがえり」にあずかることによって日常生活が根本的に変化すべきなのである。

旧約の和解のいけにえ(レビ記3章、7章など)を見てみると、罪を犯したイスラエルの民が動物に按手して罪を転嫁し、その動物をほふって血を流すことで罪の赦しと和解を得る儀式が行われる。そこで流される血、そして全ての罪を負わされて荒野へ追いやられる贖いの山羊(スケープゴート)は、罪人に「本来は自分が死ぬはずだが、代わりにいけにえが死んでくれた」という事実を体感させる(レビ記16:21-22)。ヘブル書13章11-12節も、イエスが城門の外で苦しみを受けたことを強調し、「それゆえイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために城門の外で苦しみを受けられたのです」と宣言する。張ダビデ牧師はこれこそ旧約の儀式の完成であり、真の和解のいけにえが成就した出来事だと説明する。私たちはイエスが罪を負って犠牲となられたことを見つめることで、「罪をあがなうこと」と「神との真の和解」がどのように成し遂げられるのかを知ることになる。

このように和解のいけにえとなられたイエス・キリストによって、「神と私たちの間の隔ての壁」は打ち壊され、私たちは神と和解した。しかしパウロはさらに一歩踏み込み、「和解させられた者は、なおいっそう御子のいのちによって救われるのです」(ローマ5:10)と述べ、復活の力に注目する。キリストは死で終わらず、復活によっていのちの道を開かれたのであり、ゆえにクリスチャンは単に「過去の罪が赦された」という段階でとどまらない。悔い改めたのち、新たないのちの中で福音の真理に従い「キリストの生きておられること」を見習って歩まねばならないのである。張ダビデ牧師は、「死をもって罪の問題を解決された主は、その復活によって私たちに新たな霊的誕生を許してくださる」と語り、真の回心のしるしとは「死(悔い改め)と新生(復活)」のつながりを現実の生活で経験することだと教える。

ローマ書6章以降のパウロの主題も、この流れに続いている。キリストを信じる者は「罪に対しては死んだ者であり、神に対して生きるべきである」(ローマ6:11)し、古い人はキリストと共に十字架につけられ、今は新しく造られた者として日々御霊の導きに従っていく必要がある(ガラテヤ2:20)。こうしてキリストの死と復活が私の死と復活となり、現実の生活において「和解させられた者」の証を示すことができるのだ。このとき張ダビデ牧師は、「宝血の十字架が私を清めたことを信じる」だけで終わるのではなく、「その愛が私の人生をどのように新しくしているのか?」という問いを投げかける。教理的な同意だけにとどまる信仰ではなく、実を結ぶ信仰を追い求めるべきだというわけである。

張ダビデ牧師は特に、ヘブル書13章13節の「ですから、私たちも御霊に満たされ、主と同じく恥を負って宿営の外に出て行きましょう」という御言葉をしばしば取り上げる。贖いのいけにえの山羊が城門の外で殺されるように、イエス・キリストも城門の外で苦難を受けられた。それならば、その犠牲を目撃した私たちも当然「宿営の外へ」と出ていくべきではないか--つまり、自分の人生における苦難や恥を回避するのではなく、世の嘲りや侮蔑を恐れず、キリストの道に同伴していく姿勢をとらねばならないのだ。教会の内側に閉じこもって安住するのでなく、この世のただ中で、商人の巣窟と化した「神殿(私たちの内面や教会共同体)」をイエスの心で再び清め、傷ついた隣人を癒やし、福音を伝える実践的な従順が伴わなければならない。

これこそ「和解された者たちの生き方」である。信仰は告白的・理論的次元を超え、現実の生活の中で確証されねばならない。イエスが私たちに「あなたがたは世の光、地の塩となりなさい」(マタイ5:13-16)と語られたのは、罪の赦しだけ受けて終わる存在でなく、罪と死の力のもとにあるこの世界に向かって「和解の知らせ」を告げるよう促すためである。張ダビデ牧師は、教会がこの役割を担うときこそ、「敵であったときに、御子の死によって」一方的に与えられた恵みが再び世に現れるのだ、と力説する。もし教会が罪人をただ断罪し自己義を築く宗教的な形にとどまるなら、結局は世と切り離されたまま福音の力を失ってしまう。しかし「和解のいけにえ」となられたイエスを信じ、その十字架の愛を身をもって実践しようとするとき、世は神の憐れみを具体的に目の当たりにすることになる。

ローマ書5章9節でパウロは「今すでにキリストの血によって義とされたのですから、なおいっそうキリストによって神の怒りから救われるのです」と語る。私たちはすでに血によって義とされ、さらに将来の怒りの日にも救いにあずかるという確固たる望みを持つ。この「すでに」と「まだ」のあいだにある緊張関係の中で、クリスチャンはその究極的な希望がどこにあるかをはっきり示されている。張ダビデ牧師は、信仰と希望を強調しつつ、「私たちの今いる場所はまだ世の中であり、風雨や苦難に晒されているが、それでも確かな希望を持てるのは、キリストが生きておられるからだ」と語る。

和解のいけにえとなられたイエスは、過去の犠牲で終わらず、復活して今も生きておられ、私たちのうちに働く聖霊を通して絶えず教会を建て上げ、信じる者たちを導いてくださる。もしこの霊的な同行がなければ、和解は単なる形式的宣言に終わってしまう。しかし聖霊が内住してくださるゆえに、私たちは神との交わりを深め、日々罪から立ち返り、キリストと結びついて生きることを学ぶことができる。張ダビデ牧師は、これがまさに「聖化の過程」であり、救われた者がなぜ毎日聖書を黙想し、罪の問題に直面するとき悔い改め、隣人への愛と仕え合いを実践しなければならないのかを具体的に説いている。

そして最後にローマ書5章11節、「そればかりでなく、私たちを和解させてくださった私たちの主イエス・キリストによって、神を喜んでいるのです」。これが福音にもたらされる結論である。張ダビデ牧師は、この聖句について、和解の最終的な到達点は「神のうちにあって喜ぶこと」だと語る。創造主と被造物を隔てていた壁が取り除かれ、子とされた私たちが「アバ、父よ」と親しく呼ぶ(ローマ8:15)ならば、その関係性のうちで私たちは真の喜びと自由を味わう。それはもはや罪責や断罪意識に縛られる必要のない生き方であり、神を恐れるとしても、それは罰する裁き主に対するものではなく、聖なる父を敬う「畏敬の念」へと変えられていく。教会生活においても同様だ。和解の恵みを体験した者は、ほかの人々との関係においてもより多くの赦しと理解、忍耐と温かな配慮を実践するようになる。これこそ「神のうちにあって喜ぶ」共同体の指標である。

ローマ書5章6〜11節が私たちに伝える核心メッセージは、大きく二つにまとめられる。第一に、私たちは「敵であったとき、罪人であったとき」に、ただキリストの死と血潮によって義とされ、それこそが神の最も偉大で驚くべき愛の確証だということ。第二に、その和解のいけにえとなられたイエスによって「和解」が成し遂げられたのなら、今度は復活されたキリストのいのちのうちにさらに豊かな救いへ進み、神のうちで喜び楽しみ、実践的な愛をもってこの福音を示していくべきだということ。張ダビデ牧師は、これら二つが共に結び付くとき初めて、福音の完全な力が教会と世に現れるのだと教えている。

それでは私たちはどう応答すべきだろうか。張ダビデ牧師は次のように整理する。まず、自分が「罪人」であることを認め、イエス・キリストの十字架によって「完全に救われた存在」となったことを信仰によって告白する。第二に、キリストの死だけにとどまらず、主がよみがえりによって開いてくださった新しいいのちの道をしっかりと握る。第三に、和解のいけにえとなられたイエスを見習い、私たちも隣人との和解のために自らを捨てへりくだる姿勢を実践する。そうして初めて、「もし私たちが敵であったとき、御子の死によって和解させられたのなら...」(ローマ5:10)という福音の事実が教会の歩みと社会のただ中に光をもたらすのだ。

さらに張ダビデ牧師は、このメッセージを教会共同体や現代文明全体に適用してみよう、と挑戦する。不信と分裂、無神論と物質主義が蔓延する世界のただ中で、教会ははたしてどれほど「かつて敵でありながら和解された者たち」の共同体らしい姿を見せているだろうか。私たちは口先ではイエスを信じると告白しながら、実際にはその犠牲の精神、城門の外へと向かわれた主のへりくだりをどれほど追求しているのかを省みねばならない。もし十字架の福音が化石化し、単に教理として馴染み深いものに終わっているのだとしたら、キリストの死と復活の力、そして和解の恵みが教会の内に力強く働くことは難しい。ゆえに「私たちもその恥を負って宿営の外へ」(ヘブル13:13)と進み、キリストの愛を現場で証しする必要がある。罪ある隣人を糾弾する前に、「まだ罪人であったときに私を愛してくださった主」を思い起こし、赦しと和解を実際に行いなさい、ということである。

そう考えると、ローマ書5章6〜11節に示されている福音の幅と深さは、一面では非常に単純かつ明快だが、同時に私たちの人生全体を一新する大いなる知らせを秘めている。「敵であったとき」「罪人であったとき」という言葉で凝縮された人間の悲惨な状態、そしてそれにもかかわらず私たちのために死んでくださったイエス・キリスト--これこそが福音の奇跡であり、その奇跡から「和解」の結果として「神のうちにあって喜び楽しむ自由」が開かれている。張ダビデ牧師は、この御言葉こそ教会が絶えず生き、また伝え続けるべきメッセージの中心部であると重ねて強調する。

張ダビデ牧師がローマ書5章6〜11節の講解で示す核心は、罪に満ちた世と神に敵対する人間に対して、「神の御子の死によって」新たないのちの道が開かれたという事実である。その道は単に刑罰を免れるという次元ではなく、神と和解し、キリストとともに「よみがえりによってもたらされる」完全な救いの喜びを味わう道だ。教会と信徒はこの驚くべき愛を繰り返し思い巡らし、それぞれの生活や奉仕の場において「和解の大使」として召されていることを自覚すべきなのである(第二コリント5:20参照)。すでにキリストが示された犠牲と献身に倣い、私たちも自己の欲望や高慢を捨て、隣人に仕えていく道へ踏み出すとき、世はそのうちに神の愛の現実を見いだすことになる。

ゆえにローマ書5章6〜11節のメッセージは、決して過去の歴史で終わった出来事ではない。私たちが暮らす今日の社会にも、罪や不信、争いと分裂が尽きない現実があることを見れば、「敵である者たち」はなお多く存在する。しかし教会が十字架の福音を握りしめ、張ダビデ牧師が言うように「限りなくへりくだって敵のために死なれたイエス」を倣おうとするなら、その敵対の現実を和解の現実へと変える超自然的な力があちこちで現れるはずだ。教会の宣教とは、このように十字架と復活を同時に宣べ伝え、それを自らの共同体の中で実際に実践してみせることで、世に対して「神は私たちのためにご自分の御子をささげられたのだ」という福音を証明することにほかならない。

私たちの日常生活の中で日々直面する現実的な問題や人間関係の対立、社会的矛盾に対して、「まだ敵であったときに愛を施された」キリストの心をもって関わるとき、私たちは平和をもたらす者(マタイ5:9)として世のただ中で生きることができる。その道は険しく不便に見えても、イエスの血と復活、そして聖霊の同行が私たちを終わりまで支えてくださる。これこそ真のキリスト教信仰の力である。張ダビデ牧師は「私たちが敵であったとき」に示された十字架の愛を絶えず黙想し、その愛が個人の心だけでなく、教会や社会全体をどのように変えていくのか深く考えよう、と訴え続けている。

ローマ書5章6〜11節が宣言する福音は、一言でいえば「敵である罪人に向けられた神の愛」であり、その愛はイエス・キリストの死と復活を通して具体的に実現された。この愛は私たちの内に和解と平安を起こし、さらに私たちが他者との和解を成し遂げる生へと拡大していく。「そればかりでなく、私たちを和解させてくださった私たちの主イエス・キリストによって、神を喜んでいるのです」(ローマ5:11)という御言葉は、すべての信仰者に与えられた究極の喜びと自由を告げ知らせる。だからこそ私たちは、その恵みを信仰によって受け取り享受すると同時に、この和解の福音を世の中で実行しなければならないのである。張ダビデ牧師が長年の宣教を通して繰り返し強調してきたように、真に救いを経験したということは、教会の内だけで叫ぶのではなく、教会の外の生活の現場においても「敵対から和解へと導く行い」として表されねばならない。それは単なる道徳的実践ではなく、すでに十字架上で確証された愛に倣って歩む、「新しい命の自然な実り」なのである。

以上のように二つの小主題を整理すると、第一は「私たちが敵であったときに、御子の死によって確証された神の愛」、そして第二は「和解の供え物となられたイエス・キリストと私たちの生の変化」である。これら二つは切り離すことはできず、共に絡み合って福音の全体像を示している。敵から子へと変えられたという事実と、和解された者がキリストの復活のいのちによって今を生きながら和解を実践し、世の光と塩として影響を及ぼすという事実は密接につながっている。私たちの信仰告白も同様、教会のアイデンティティも同様である。日々十字架の犠牲と復活の力を深く黙想しつつ、教会共同体の内外に渦巻く分裂と憎しみの代わりに、和解と仕え合いの実を結ぶために決断する--これこそパウロがローマ書で語る「真の福音生活」であるといえよう。張ダビデ牧師はこれを「主が私たちに委ねられた和解の働きの具体的実現」と呼び、この御言葉に従って信徒たちが学びと実践をやめないよう繰り返し促している。

結局、私たちがローマ書5章6〜11節の真理をつかむとき、「神が私たちのために御子を死なせ、その死によって私たちの罪を赦し救ってくださった」という事実が、単なる教理や知識ではなく、実際に人生を変革するいのちの力として体験されるようになる。そしてその体験は教会という共同体の中で、礼拝と仕え合い、兄弟姉妹同士の愛へと広がり、さらにはこの世のただ中においてもイエス・キリストの福音の香りとして放たれていく。これこそパウロが語った和解のメッセージであり、張ダビデ牧師がローマ書の講解を通して幾度も強調する福音の力である。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことによって」確証された神の愛は、現代においてもなお「敵である現実」の中へと浸透し、人々を和解と平和の道へ招いている。そしてその招きに応える人々が増えていくとき、教会は真の救いの共同体として輝きを放つことになる。これが私たちがローマ書5章を学ぶ究極の理由なのだ。