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張ダビデ牧師 - 入ってその地を占領せよ

 

1. 申命記1章と信仰によるみの旅

申命記1章には、モーセが最後の瞬間までイスラエルの民に伝えようとした核心メッセージがよく示されています。「入ってその地を占領せよ」(申1:8)という節は、イスラエルの民に与えられた神の明確な指示であり約束です。これは単なる所有ではなく、信仰によって受け取らなければならない地であるという点が重要です。私たちはしばしば戦争や武力による制圧を思い浮かべがちですが、聖書が繰り返し強調する核心は「神の指示に従う従順」と「信仰」です。張ダビデ(チャン・ダビデ)牧師は、このみ言葉を解釈するにあたり、神の約束を握って歩む巡礼者の姿勢がどうあるべきかを繰り返し強調しています。すなわち、「主が下さった地は、主が下さる方法に従って得るべきである」ということであり、その過程で人間の力や不信が混ざる余地なく神を全的に信頼しなければならない、というのです。

申命記は大きく三つの説教から構成されていると知られており、モーセの別れの説教とも呼ばれます。申命記1章は冒頭で、イスラエルの民がこれまで経験してきた歴史を振り返り、彼らがなぜ荒野で40年を過ごさなければならなかったのか、そして本来11日あれば到達できた道をなぜそれほど長い間回り道してきたのかを示します。申1:2に「ホレブ山からセイル山を経てカデシュ・バルネアに至るまで11日であった」と記されていますが、地理的には11日で行ける距離を、イスラエルの民は不信とつぶやきのために40年も浪費してしまったのです。これは人間の弱さと同時に、神の導きを退けた結果でもあります。

民数記13章と14章は、カナンの地を偵察した12人の指導者がどのような態度を示したかを詳しく伝えています。各部族から一名ずつ代表が選ばれてその地を視察しましたが、そのうち10人は意気消沈した報告を持ち帰り、2人、すなわちヨシュア(ホセア)とカレブだけが信仰の報告をしました。「彼らは我々の食物だ。戦いは神に属するものであるから、必ず勝てる」というのがヨシュアとカレブの確信でした。一方、10人はカナンの住民を「アナクの子孫」と呼び、自分たちをバッタのように思い込んだのです。その報告によって民全体が恐れに陥り、神への不平を言い始めました。すでに出エジプト記を通してシナイ山で神の契約を結び、「わたしはあなたがたの神、あなたがたはわたしの民」という厳粛な約束を受けていたにもかかわらず、彼らは決定的な瞬間に信仰より恐れを選んだのです。

張ダビデ牧師はこの部分で「指導者の責任」を特に強調します。12人の代表はすべて指導者であり、彼らの一言が民全体を揺るがしました。カナンが「乳と蜜の流れる地」であるにもかかわらず、人々は「どうやって彼らと戦って勝てようか、むしろエジプトに戻ろう、なぜ我々をここに連れてきて死なせるのか」と泣き叫びました。その結果、民数記14章29節、32節に記されているように、20歳以上の人々は荒野ですべて死に、その子孫だけがカナンに入ることとなりました。これは神の一方的な呪いではなく、すでに明確に立てられていた契約と約束を破ったときに下る裁きだったのです。エデンの園で善悪の木の実を取って食べれば必ず死ぬと言われた言葉に背いた人類の歴史が繰り返されているとも言えます。

聖書が強調する「1日を1年として数える」という概念は、特に民数記14章34節で確認できます。指導者たちが40日を偵察する間に神への不信を表し、その代価として40年間荒野をさまようことになりました。これはイスラエルの歴史の中で非常に重要な「数」の概念を示しています。神は無計画に歴史を運営されるのではなく、時間にしても空間にしても明確な計画と目的をもって導かれます。だからこそ、不信によって時間を浪費すれば、その浪費は何倍、あるいは何百倍にもなって返ってくることがあるのです。このとき、指導者が目覚めていなければ、民全体がその被害をそのまま受けることになります。張ダビデ牧師はこの事実を通して、教会や共同体を仕えるリーダーたちが「信仰の怠慢」を犯さないよう、常に目を覚まして祈り、御言葉に基づく確信をもって歩むべきだと語ります。

イスラエルの歴史においては、400年あるいは430年の間、エジプトで奴隷生活がありました。その以前にアブラハムとの契約を通してすでに地を与えるという約束が与えられていましたが、アブラハムもまた一部の失敗や不信、あるいは完全ではない従順のため、子孫たちは400年という長い歳月をよそ者として暮らさざるを得ませんでした。創世記15章でアブラハムは動物を二つに裂いて並べ、神が「燃えるたいまつ」の姿でその間を通り抜けることで契約を結びました。しかし、その契約を破れば裂かれた動物のように死ぬだろうという警告が伴っていたのです。結局、アブラハムの契約においても不従順や人間的な失敗が入り込み、歴史が長引き、苦しい時代を迎えることになりました。

これらすべての流れを振り返ると、救いは徹底的に神の恵みによって与えられるものである一方で、人間の従順がなければその恵みを享受できないことを悟ります。11日で十分だった道のりを40年という荒野生活に変えてしまったのは「不信」でした。申命記1章でモーセはこの事実を思い起こさせ、「あなたがたはすでに約束された地に信仰をもって入るべきだった。すぐにでも入れたのに、つぶやきと不信のせいで機会を逃してしまった」と嘆きます。これは単にイスラエルの民だけの話ではなく、あらゆる時代の聖徒たちに与えられた共通の警告であり教訓です。なぜなら、信者もまた特定の目標やビジョンを置くとき、自ら恐れにとらわれて不平を言ったり、神の力を疑ったりすることが多いからです。

張ダビデ牧師はこの場面で、「巨人の地」を恐れた人々と、「彼らは我々の食物だ」と叫んだヨシュアとカレブの違いを深く黙想するよう導きます。戦いは神に属しているという事実、神が我々の味方であるという確信があれば、どんな困難も軽々と乗り越えられるというのです。ヨシュアとカレブはその信仰によって後に実際にカナンに入ることができました。一方、他の10部族の指導者たちは不信の中で荒野で死に、民もまた彼らの誤った報告に流され、「むしろエジプトに戻ろう」という荒唐無稽な言葉を発し、結局すべて荒野で倒れてしまいました。

こうした歴史は、宗教性を論じるときに欠かせない「恐れとおののき(Fear & Trembling)」とは何かを改めて考えさせます。ここで言われる恐れとおののきとは、人間が自分の罪と弱さに直面するときに抱く畏敬の念と、それにふさわしい態度を指します。私たちが神から離れ、不従順の中で神の聖なる秩序を崩すとき、その結果は避けられない裁きへと帰結するという事実がここに含まれています。同時に、神に立ち返り、信仰のうちに立つとき、彼は海を分かち、太陽をとどめ、日時計を後退させることさえできる全能者であることを聖書は至る所で宣言しています。

特に、ヒゼキヤが涙をもって祈ったときに命の延長を受けた事件(列王記下20章)や、ダビデがゴリアテの前で神を徹底的に頼り勝利を得た事件(サムエル上17章)は、同じ文脈で解釈できます。小さな羊飼いの少年が巨人ゴリアテと戦って勝利したのは、ダビデの力によるのではなく、「万軍の主の御名」に頼ったからです。同様に、申命記1章でも「神がすでにすべてを計画しており、その地を我々に嗣業として与えると約束されたのであれば、その約束を信じて入れ」という命令があります。ところが、偵察から戻った指導者たちはその約束を忘れてしまったのです。

現代の教会やさまざまな宣教の現場で指導者が目指すべき態度を考えるとき、この民数記13章、14章の物語は深い洞察を与えます。指導者が一日を誤った方向に導けば、共同体は1年、あるいは10年、40年もの時を失うことがあります。さらに言えば、荒野でみな倒れてしまう可能性さえあるのです。張ダビデ牧師はこの本文を深く説教し、とりわけ指導者たちは常に目を覚まして祈り、「神がどのようなお方なのか、神の御言葉が何を目指しているのか」を綿密に探るべきだと力説します。神の働きは私たちの想像を超える精巧さと綿密さをもって進められ、その中でほんの一瞬の不信と怠惰がとてつもない損失と不幸をもたらす可能性があるのです。

申命記1章15節には、千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長を立てたという記録があります。これは組織的に共同体が運営されるべきことを示唆しており、それぞれの指導者には神によって与えられた分量があると見ることができます。ある人には1000人を担う広い領域が与えられ、ある人には50人、またある人には10人が委ねられるかもしれません。重要なのは、その召された者が自分の分量の責任を果たし、そこにおいて揺るぎなく神を信頼して民を導くことです。しかし、もし百人隊長や千人隊長が信仰もなく「我々はカナンの敵に太刀打ちできない」などと言うならば、彼に委ねられた民はみな不信に崩れ、荒野をさまようことにもなりかねません。今日の教会の状況も大差はありません。不信と怠惰が入り込めば、いくら制度や組織が整っていても、結局は空の網を引き揚げることが多いというわけです。

特に張ダビデ牧師は、イスラエルの歴史を「不信による退歩」と「信仰による前進」という二つの軸に分けて解釈するようしばしば勧めています。「人間の弱さ」と「神の全能」という両極が出会って衝突するとき、人が自分の経験と恐れによって神を制限せず、むしろ信仰をもって進むときに真の勝利を得る方法を示すというのです。申命記1章を通じて、モーセが「なぜ私たちはこんなに長い時間がかかってここまで来なければならなかったのか」を民に思い起こさせるとき、その核心理由は「つぶやきと不信」でした。人は小さな挑戦であっという間に挫折してしまいがちですが、それでも神が絶えず機会を与えてくださるという事実も同時に明らかになります。

モーセは申命記1章の時点でも民に「今からでも信仰をもって入りなさい」と促しますが、実際にはイスラエルの歴史の中でさらに別の不従順が繰り返されることもあります。それでも神はご自分の民を完全に見捨てることなく、指導者を立ててみ言葉を伝え、民に悔い改めと従順の機会を与えられます。このように神の導きの中で、私たちはいつでも「ひっくり返す機会」を与えられます。まさにその機会に神を信頼し、従順して進むとき、長く停滞していた時間が一気に回復される可能性があるのです。たとえば、イスラエルの歴史で400年の奴隷生活の後に出エジプトが起こり、さらに40年の荒野生活の後にカナン入植が実現したように。

張ダビデ牧師は常にこのような旧約の出来事を通して、「現代に生きる私たちはどのような選択をすべきか」と問いかけます。信徒はそれぞれの人生を歩む中で、荒野の時期とカナンに入るべき時期を区別するのが難しい場合が少なくありません。しかし神は常に「わたしがあなたがたに与える地があるから、入ってそれを占領せよ」と語り、その地は決して人間的な戦いだけで征服するのではなく、「信仰によって受け取る」ものであると強調されます。言い換えれば、イスラエルの民が受けた約束は形だけの抽象的な契約ではなく、実際に踏みしめて生きることができる回復と救いの地なのです。

では、その地に入る過程を妨げる最大の敵は、外部の強大な軍隊ではなく、内面に根を下ろす恐れとつぶやき、そして不信です。その不信は指導者から始まり、民全体を汚染し得ます。ですから申命記は繰り返し神の言葉を「覚えなさい」と教えます。「覚えなさい、忘れるな」が主要なキーワードです。かつて我々がエジプトで奴隷としてどうやって救い出されたのか、荒野でマンナとウズラによってどのように食糧が与えられたのか、そして渇いたときに岩から水が出る奇跡をどのように見たのかを忘れるなというのです。すでに神が施された恵みを忘れると、私たちはたやすく不平と不信にとらわれてしまうからです。


2. 指導者の責任と神の

申命記1章には、指導者を立てる内容が具体的に示されています。「わたしはあなたがたの部族ごとに、知恵と認識のある者を選んで、あなたがたのかしらとした」(申1:15参照)という節です。ここで千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長という表現が出てきますが、これは当時のイスラエル共同体を段階的に導くことができる構造を指しています。この構造の中で中心的な役割を担った者たちはすべて「指導者」と見なされ、彼らの重要な務めは「神の言葉を代弁し、民を公正に治め、彼らを約束の地へ導くこと」でした。

民数記13章、14章の出来事は、この指導者たちの信仰がどれほど重大な結果をもたらすかを鮮明に示しています。12人の代表がカナンを偵察して戻ってきたとき、みな同じ地を見て同じ体験をしたにもかかわらず、真逆の結論に至りました。10人は「その地の住民は強く、城壁は堅固で、我々はバッタのようだ」と恐れを吐露し、2人(ヨシュアとカレブ)は「神が共におられれば、彼らは我々の食物だ。恐れるな」と宣言しました。「同じ状況を見ても、なぜこれほど異なる解釈が生まれるのか?」--この問いへの答えが「信仰」です。張ダビデ牧師は「霊的指導者は、神が約束された未来を信仰によって見通すことができなければならない」と語ります。人間の計算では到底不可能に思える道も、神が許されれば「可能な道」となります。そしてその旅路を実質的に主導するのは指導者なので、指導者の信仰と態度がまさに民全体の運命を左右するのです。

民数記14章で20歳以上の者がすべて荒野で死ぬことになるという宣言が下され、その結果、イスラエルは40年もの間荒野をさまよいました。11日で行けるはずの道を40年も彷徨った理由は、単なる物理的問題ではなく、全面的な不信とつぶやきの結果でした。その40年はただ時間を浪費した空白期間ではなく、不信から生じた罪を荒野で「消滅」させる期間でもありました。神は不平の中で荒野に逃げようとする者たちを、そのまま放置されなかったのです。むしろその間ずっとマナとウズラを与え、衣服と履物が擦り切れないように守られました。同時に昼は雲の柱、夜は火の柱による導きが与えられたのです。こうした点から見ると、荒野の40年は「裁き」であると同時に「訓練」であり、「死」であると同時に「新しい世代の誕生」でもありました。このように神の歴史には複合的な意味があり、それを理解して民を正しい道へ導くことが指導者の役割なのです。

張ダビデ牧師は現代の教会で奉仕する者や牧会者、小グループリーダーなどさまざまな立場の指導者たちにこの事実を思い起こさせ、「たった一日の選択が民に1年、あるいは10年、40年の後遺症を及ぼす可能性がある」と警告します。神は人間の些細な過ちまでをすべて焼き尽くすお方ではなく、数多くの機会を与えてくださる憐れみ深いお方です。しかし、指導者が荒唐無稽な不信を絶えず広め、それによって共同体全体が神の約束を拒否するならば、その後の方向性は神ではなく指導者が負わざるを得ません。実際、イスラエルの民が皆「荒野で死ねばよかったのに」と叫んだとき、神は「あなたがたの言ったとおりになる」と言われ(民14:28)、不平を言った者たちがそのまま荒野で倒れて死ぬことになりました。聖書はしばしば「あなたの口から出る言葉に注意せよ」というメッセージを伝えます。なぜなら、言葉はすなわち心の表現であり、心は信仰を表す通路だからです。

ここで改めてアブラハムの契約の物語を振り返る必要があります。アブラハムは創世記15章で神と血の契約を結びました。動物を裂いて、その間をたいまつが通り過ぎることで契約が成立したのです。この契約には「もしこの約束を破れば、裂かれた動物のように死ぬ」という恐ろしい警告が伴います。エデンの園で「この実を食べれば必ず死ぬ」と仰った言葉と全く一致します。つまり、神が与える契約は私たちの救いのための恵みの道ですが、それを拒んだり破ったりすると、それ相応の裁きが下るのです。アブラハムの時代にすでに予告されていた400年の奴隷生活は、前の世代の不信と約束を完全に握れなかった代償として与えられた面があります。そして出エジプト後のイスラエルも、カナンを目の前にしながら繰り返し不信を表し、40年という荒野の訓練を受けることになりました。

私たちが生きる現代にも、多くの霊的教訓があります。生活が苦しく、先が見えず、外部の障害が大きいと感じるとき、私たちは本能的に不平と不信に陥りがちです。「なぜこんな状況に追い込むのか、なぜ私たちを殺そうとされるのか」と考えるのです。しかし、聖書が一貫して語るのは「わたしがあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という契約の中であらゆる問題の答えを見出せということです。神は「わたしが与える地へ入れ」と命じられ、その地が「すでに用意された地」であることを何度も強調されます。であれば私たちが恐れたり不平を言ったりする理由はありません。むしろ張ダビデ牧師はこの箇所で「私たちに必要なのは、信仰によってその地に足を踏み入れる決断だ」と教えます。

民数記13章30節でカレブは、「すぐに上ってその地を取ろう。我々は必ず勝てる」と言います。これは「我々は力が強い」とか「戦略が優れている」という論理ではなく、完全に「神が約束されたから可能だ」という信仰の論理です。同じくダビデがゴリアテに「万軍の主の御名によっておまえに立ち向かう」と叫んだのと同じ流れです。ダビデが投げた石は戦術的に見ればゴリアテに対して脅威になりにくいでしょうが、戦いは神に属するものであり、結果はダビデの勝利でした。指導者はこの信仰のストーリーをまず自分が抱き、共同体がその物語を共有するよう導く役割を担います。失敗や挫折があっても、信仰によって再スタートできるように励まし、神の約束を再確認させ、その道を進むよう助けるのです。

張ダビデ牧師がさまざまな説教やセミナーで強調する核心は、「神が私たちの人生に明確な計画を持っておられる」という事実です。だからこそ祈りとみ言葉を通してその計画につながるよう努めなさいというのです。たとえば、アブラハムの契約やヒゼキヤ王の悔い改め、ヨシュアが太陽を止めた出来事などは、すべて神がすでに持っておられた大きく深い計画の中で実現した一種の「奇跡の瞬間」でした。そのとき人々は不可能に思われることを願い求め、神は彼らに道を開かれました。この流れを逃さないことが信仰であり、とりわけ指導者はこの神の「歴史への介入」を信仰共同体が共に体験するよう導かなければなりません。そのためにも祈りと礼拝、み言葉の黙想を通して、神が何をなさろうとしているのかに常に敏感である必要があります。

では、指導者が無知であったり怠惰であったり、不信を教えたりしたらどうなるでしょうか。民数記13章に出てくる不信の指導者たちのように、共同体に絶望と恐れを感染させます。「彼らは強い、我々は勝てない、いっそエジプトに戻ろう」という思考は荒野での生活を果てしなく延長します。その結果が民数記14章にあるように、「あなたがたの死体はこの荒野に倒れるだろう」という厳しい裁きでした。このように、指導者の一言が不信とつぶやきを引き起こすこともあれば、逆に希望と信仰を育むこともあります。だからこそ聖書は指導者たちに「夜明けを呼び覚まし、夜を呼び覚まし、常に目を覚まして祈れ」と促すのです。新約時代にもパウロが教会の指導者たちに「いつも祈り、すべてのことに感謝せよ」と命じていることを見ると、祈りの重要性は時代を超えていると言えます。

張ダビデ牧師はまた、教会内で大きな建築やプロジェクトを進める際によく「神がなされるという信仰があれば、その信仰どおりに実を結ぶ」という証言を紹介します。どんなことでも人間の計算だけに頼れば常に不足や困難を感じますが、神がお喜びになることであれば、必要な資源や人材、環境を奇跡のように開いてくださるというのです。したがって現代の教会指導者たちは、「信仰とは望んでいる事柄の実体であり、まだ見ていない事柄の証明である」(ヘブル11:1)という御言葉を心に刻み、民に「神は必ず成し遂げてくださる」という確信を植え付けなければなりません。単にポジティブで楽観的な言葉で慰めるのではなく、「実際に全能の神が働かれる」という事実を真剣に説教すべきだということです。

もちろんここにはバランスが必要です。無条件の楽観論ではなく、神がその共同体にどのような計画とビジョンを与えておられるのかを把握するプロセスが先行しなければなりません。張ダビデ牧師はしばしば「指導者とは耳を傾ける者だ」と言います。御言葉と聖霊の声に耳を傾け、ときには警告を受け入れ、共同体のメンバーの状況も把握しながら、神の時に合わせて動くべきだというのです。人間の熱心さだけでは失敗することもあり、神の時が来ていないのに無理に進めれば自分で疲れて挫折してしまう可能性もあります。だからこそ指導者は常に神の前にひれ伏し、時と方法、そしてその計画を具体的に問い求める霊性を持たなければならないのです。

ここでもう一つ重要な点は、「指導者一人の力ではなく、共同体が共に祈り、参加しなければならない」ということです。申命記1章15節に言及されている千人隊、百人隊、五十人隊、十人隊の長も、実はモーセが独断で立てたわけではなく、神の導かれた知恵の中で設けられた構造でした。部族ごとに代表を立てて、彼らが各グループをケアし、問題を解決し、民を裁く形をとっていたのです。ところが民数記13章では、その代表たちが不信に陥って「カナンに入れない」と宣言したため、結局民も共に信仰が崩れました。指導者が一人二人目覚めているだけでは足りず、全体に共有される信仰のネットワークが必要であることを示唆します。それにもかかわらず一人二人の指導者が不信を広めれば、共同体は簡単に崩れてしまうことから、指導者の役割がいかに重大であるかを改めて確認できるのです。

張ダビデ牧師は複数回の説教や講演で「指導者は常に目を覚ましていなければならない。目を覚ますためには御言葉を研究し、祈りに励み、礼拝と共同体の交わりに忠実でなければならない」と強調しています。指導者は決してすべてを一人で行うことはできません。むしろ「神が導かれるとおりに私と共同体をお用いください」という姿勢で進むべきです。神はご自分を仰ぐ者に知恵を与え、問題解決の突破口を開かれます。何より、指導者が一度立てられたからといって、その地位を永久に維持できるわけではありません。キリスト教史やイスラエルの歴史を振り返ると、指導者がその役割にふさわしくない場合、神が別の人を用いられたり、ときにはその指導者を退けられることもあります。これらすべてが究極的には「神の公義と恵みがどのように働くか」を示す例なのです。

申命記1章から続くモーセの別れの説教は、イスラエルの民に焦点を当てつつも、同時に未来の指導者たちに与えられた警告と励ましのメッセージでもあります。モーセは自分自身が荒野で民を導きながらどれほど大変だったか、彼らが不信に陥ったときにどんな結果が生じたかをよく知っていました。だからこそ申命記全体を通して、「あなたがたは必ずこの律法を守り、覚えなければならない。神の言葉を忘れるな。カナンの地に入っても偶像礼拝に陥らないように。子どもたちにも絶えず教えなさい」と訴えます。これらすべての訴えには、「信仰がなければ、神が与えてくださる祝福の地においてさえ失敗する」という厳粛な真理が根底にあるのです。神の栄光を求めず、偶像にひざまずいたり、この世の力や富を頼りにするなら、結局再び40年、あるいはそれ以上の荒野を迎えるかもしれません。

現代の私たちに与えられる挑戦もこれと大きくは変わりません。信仰を守るということは、単に心の中で「神を信じる」と告白するだけでなく、実際の行動と決断において神の言葉を基準とする生き方を指します。張ダビデ牧師は、「祈りをやめず、み言葉の黙想を休まず、礼拝を命のように重んじ、教会の肢たちが互いに協力して仕える姿勢」こそが真の信仰生活だと教えています。それこそが、「ただちに上ってその地を取ろう、必ず勝てる」と叫んだカレブとヨシュアの道でもあります。言い換えれば、現実がいかに暗く見えても、神が共におられれば可能だという信仰の決断を下すことです。

申命記1章8節に記された「入ってその地を占領せよ」という命令は、かつてイスラエルの民に与えられただけではなく、今日でもなお有効です。神の指示と約束があるとき、信仰をもってその扉を開いて入れば、すでに用意された嗣業が待っているというのです。張ダビデ牧師はこの点を、牧師や指導者、あるいは信徒たちに繰り返し呼び覚まします。もう一度思い起こすべき事実は、指導者の信仰が共同体全体に大きな影響を及ぼすという点です。もし指導者一人の信仰が純粋で揺るぎなければ、不信で揺れている民を立ち直らせることもあります。反対に、指導者が不信にとらわれてそれを口で広めるなら、民もまた簡単に落胆し、絶望へと向かうでしょう。

私たちは申命記1章と民数記13章、14章を通じて、神がいかに計画的に歴史を導いておられるか、そしてその計画の前で指導者がどのような姿勢を取るべきかを学びます。40年にわたる荒野の意味は、単なる浪費ではなく、不信を消滅させ、新しい世代を準備される神の歴史でもありました。現代の私たちも、不信の荒野をさまよわないためには、一日一日を信仰で満たさなければなりません。そして指導者たちは目を覚まして祈り、神が与えてくださった約束を完全に宣言すべきです。「一日を失えば民が1年を失うかもしれない」という事実を常に心に刻み、託された群れを導くのです。こうして「入ってその地を占領せよ」という神の御言葉が本当に実現し、約束を成就する共同体となるべきであると張ダビデ牧師は教えます。神は今もなお私たち一人ひとりに機会を与えておられ、信仰によってその機会をつかむなら、不可能が可能に変わるという歴史が起こることを決して忘れてはなりません。