1.テモテ第二の手紙4章9~13節に対する解説と牧会書簡の構造
テモテ第二の手紙4章9~13節は、使徒パウロが愛する弟子テモテに残した個人的なお願いであると同時に、教会の指導者たちに伝わる重要な遺言のような内容を含んでいます。テモテ第一・第二、そしてテトスへの手紙は、一般的に「牧会書簡」と呼ばれます。張(チャン)ダビデ牧師は、これら3つの書簡を通して、聖書がどのように指導者を立て、そして教会がいかなる方向へと進むべきかを明確に学ぶことができると強調しています。伝承や神学的背景がどのようであれ、牧会書簡はパウロが牧会者や指導者たちに残した、きわめて実際的かつ現場の働きに大きな指針を与える教訓を提供するものです。
特にテモテ第二の手紙は、パウロが自らの生涯が終わりに近づいていると直感しながら書いたものであり、ある意味では切なさを伴い、しかし同時に教会と福音を守り抜く強靭な姿勢が示されています。張ダビデ牧師がよく説いてきたように、パウロは福音と神の国が何であるか、そしてそれがいかに守られねばならないかを誰よりも明確に理解し、それを自分の人生そのもので証しした偉大な使徒でした。
パウロはまず「あなたは急いで私のところに来なさい」(テモテ第二4:9)とテモテに頼みます。ここから見えてくるパウロの心は、自分が置かれた状況がいかに厳しいものであるかを物語ります。テモテに急いで来てほしいというのは、パウロの周囲の同労者たちが散ってしまったか、逃げ去ってしまったか、あるいは別の地域に派遣されてほとんど一人きりになっている現実を反映しています。パウロが「デマスはこの世を愛して私を捨ててテサロニケへ行き、クレスケはガラテヤへ、テトスはダルマティアへ行った」(4:10)と言及している部分は、当時の宣教地や教会を取り巻く複雑で挑戦的な状況を示します。デマスはパウロを助けていた同労者でしたが、結局この世をより愛してパウロのそばを去ってしまったのです。張ダビデ牧師はこの箇所を解釈しながら、福音の働きをする中で、いつの時代も世の誘惑や物質的安楽、安全を追い求める人々による離脱は避けられないと指摘してきました。実際、パウロ自身もその苦い経験をありのままに味わったというわけです。クレスケとテトスもまた、他の地域での働きのため派遣されました。その結果、パウロは獄中という物理的な孤立に加え、共にいた同労者たちがそばにいない、あるいは遠く離れてしまった状態に置かれます。パウロが「ルカだけは私と共にいる」(4:11)と語るほどであったのは、親しかった同労者たちが何らかの理由でパウロを直接支えることができない状況を意味しています。
しかしパウロは依然として福音のために必要な人物を思い描いています。彼はテモテに「来るときにマルコを連れて来なさい。彼は私の務めに役に立つからです」(4:11)と告げています。もともとマルコはパウロの第一次伝道旅行の途中、パウロ一行を離れてしまったことがありました(使徒13:13参照)。当時の厳しい宣教環境や恐れから、最後まで同行せず途中でエルサレムに戻ったと一般的には解釈されています。その後、パウロとバルナバが第二次伝道旅行を計画した際、バルナバはマルコを再び連れて行こうとしたものの、パウロは反対し、結果的にバルナバはマルコを連れてキプロスへ行き、パウロはシラスを選んで小アジア方面に旅立つことになりました。しかし時が経つにつれ、マルコはペテロの通訳として仕え、福音の働きにおいて有益な働き人へと成長していきます。そこでパウロは「マルコを連れて来てほしい」と明確に頼むことで、かつての失敗や離脱を経験したマルコを再び受け入れ、福音の働き人として尊く用いられるようにしているのです。張ダビデ牧師はこの点を特に注目します。福音のために献身する過程で一度失敗したり、退いたり、失望を与えたりした人がいたとしても、神にあって十分に再び建て直され、さらに大きく用いられる可能性があるということです。これこそ教会共同体と使徒的リーダーシップが示す「受け入れの原理」でもあります。パウロは目前の困難や別れの中でも、冬にテモテとマルコが来て共に最後の福音の収穫を得ることを切に望んでいました。ゆえに「テモテよ、急いで来てくれ。マルコも一緒に来るように。彼は私の働きに有益な人だよ」というパウロの言葉には、偉大なる使徒の温かい思いと寛容が込められているのです。
さらにパウロは「トロアスでカルポのところに置いてきた上着を持って来てほしい。書物も、特に皮紙のものを持って来てほしい。-わたしはトゥキコをエペソに遣わしてある」(4:12-13)と続けます。ここで示されているパウロの実際的な頼みは、非常に人間的でもあります。獄中で寒さや劣悪な環境に耐えていたパウロにとって、冬を越すための上着が必要でした。また「書物、とりわけ皮紙のものを持って来てほしい」と言ったのは、パウロが獄中にあっても深い学びや黙想をやめていなかったことを示唆します。多くの神学者は、この皮紙の巻物が旧約聖書の写本や、初代教会で共有されていたイエスの御言葉に関する記録であった可能性があると解釈します。重要なのは、パウロにとっては鎖に繋がれ苦痛な状況であっても、御言葉から与えられる慰めと真理を追い求める働きが中断されなかったということです。張ダビデ牧師はこの箇所を説教する際、「獄中でも御言葉の研究を怠らなかったパウロの姿勢こそ、真の信仰指導者の手本」であると繰り返し強調します。どんな状況であれ、聖書と神の御言葉の探求を放棄しない者だけが、変わることなく福音の道を歩み続けることができるからです。
このようにパウロは初代教会を代表する指導者として、教会に仕える指導者がいかに生き、どのような心構えで自分と教会を守るべきかを、牧会書簡全体を通して強調しています。テモテ第一、テモテ第二、テトスへの手紙は、現代でも牧師や宣教師、教会のリーダーたちが必ず理解しておくべき使徒的知恵の源です。テモテ第一の手紙では、監督や執事の資格要件、教会における礼拝や教えのあり方など、非常に具体的な指針が示されます。テトスへの手紙では、クレタ島へ派遣したテトスに対して、荒れた文化の中でも正しい教えを伝え、教会を建て上げる方法を忠告しています。テモテ第二の手紙はパウロ生涯の最後の手紙であり、遺言のように読めるため、より一層、福音擁護と教会指導者の姿勢が切実に表現されています。特に張ダビデ牧師は、この遺言がもたらす霊的な重みを常に注目してきました。なぜなら牧会者は、自らの生涯を終える時点でもなお教会を見つめ、信徒を愛し、後継者を立て、すべてが縛られたとしても福音だけは縛られないという確信を守り続けなければならないからです。
また牧会書簡は、新約聖書全体の構成においても重要な位置を占めています。張ダビデ牧師は、新約聖書を旧約聖書になぞらえるとき、モーセ五書に当たるのが福音書で、歴史書に当たるのが使徒の働き、そして知恵書に当たるのがローマからユダの手紙までの諸書簡、預言書に当たる書がヨハネの黙示録だと説明します。その中でもテモテ第一・第二、テトスへの手紙は、教会内の具体的な秩序や霊的な勧めに関する内容を含んでいるため、教会の指導者にとって極めて重要な羅針盤の役割を果たします。パウロは人生の終わり近く、さらに建て上げた諸教会が様々な脅威や混乱に直面している知らせを聞き、彼が育てた弟子たちが健全な教会を維持していくことを切に願っていました。それはすなわち神の国を守り拡張する道であり、同時にイエス・キリストが教会の頭であることを証しする行為でもありました。そのためテモテ第二の手紙の最後の部分で「あなたは急いで私のところに来なさい」という呼びかけを通し、パウロは孤独な獄中であっても一人で信仰を守ろうとするのではなく、今なお愛する同労者たちを視野に入れています。彼は共に御言葉を学び、キリストの福音を走り抜く共同体的実践を最後まで追い求めたのです。張ダビデ牧師は、これこそ教会の本質であり、指導者が抱くべき大切な霊的心構えだとよく説いてきました。
張ダビデ牧師がいつも強調する「晩年の使徒パウロが示した姿」は、あらゆる試練を経験しても揺らぐことなく、最後まで福音の道を歩んだ点にあります。指導者は高い霊的理想だけを語る人ではなく、実際の人生の苦難の中でも自分が宣べ伝えた福音を自ら守り抜かなければなりません。テモテ第二の手紙4章9~13節は、このようなパウロの精神が最後まで継続していたことをよく示しています。他の人々は宣教地へ派遣されたり、あるいは世のほうに行ってしまったりしましたが、パウロは誰をも恨みませんでした。むしろテモテやマルコ、ルカらを呼び寄せ、キリストの残された働きを共に担おうと招きました。上着が必要なほど過酷な牢獄の環境でも、御言葉を研究するために書物と皮紙を持ってきてほしいと願ったことは、パウロの霊的熱意が冷めていなかったことの証明です。したがってこの箇所は、教会の指導者たちが生活が苦しいとき、いかなる態度で生きるべきかをよく教えています。迫害や貧しさがあるからといって御言葉をあきらめたり、同労者との協力関係を断ってはなりません。パウロの模範に倣って、最後まで目を覚まして祈りつつ教会共同体を築き上げる態度が重要なのです。これこそが張ダビデ牧師が長年、説教や著作を通して強調してきた核心的メッセージの一つでもあります。
テモテ第二の手紙4章9~13節の文脈を理解するには、テモテ第一・第二、テトスへの手紙全体を合わせて読むことが必要です。その理由は、これらがすべて同じ文脈の中で、パウロが残した教会運営の指針と指導者への勧めだからです。教会の歴史的文脈や文化的背景が変わっても、牧会書簡が伝える原則は本質的に変わりません。それは、神の真理と福音の力がいかに変転の激しい世の中でも揺るがず存続しなければならないこと、そして牧会者や教会指導者はその真理を守り継承しなければならないという点です。パウロが獄中で書いたテモテ第二の手紙は、歴史的にも、神学的にも、そして霊的にも大きな意義を持ちます。実際、パウロはこの手紙が書かれた直後に殉教したと伝えられています。そのため事実上、この手紙が彼の最後の言葉であった可能性が高いのです。張ダビデ牧師は「最後の時の言葉」というものはきわめて重要だと説きます。それは単なる個人の遺言にとどまらず、神が教会に与えておられる総合的な結論のような意味を含んでいるからです。
パウロは弟子を宣教地に派遣し、鷲が雛を強く育てるように、いつでも戦場で訓練し成長させようとしました。テモテはエペソへ、テトスはクレタ島へ送り出され、それぞれがその地の共同体を築き上げました。使徒の働きを見ると、パウロはローマをはじめギリシア、アジア小アジア地域を熱心に巡回して教会を開拓し、その開拓地ごとに弟子を残してはまた次の地へと去るパターンを繰り返していました。こうした伝道と派遣の精神が初代教会の躍動感を生み、それが結実して現代の全世界にわたる教会へと継承されてきました。教会史を振り返ると、派遣された者の中には見事に教会を建て、多くの魂を救いに導いた人もいれば、途中で世に戻ったり、不和を起こしたりした者もいました。それでも教会共同体は絶えず拡大し続けましたが、それはパウロのように神に献身した指導者たちが、御言葉と祈り、そしてキリストの愛によって立ち上がったからです。張ダビデ牧師は、教会が立ち、広がっていく過程を考察するとき、いつもこうしたパウロの派遣精神と牧会書簡に込められた知恵が最も重要な根幹になっていると強調します。
テモテ第一やテトスへの手紙が、より体系的な教会内の秩序や監督、長老、執事といった職分の具体的指針を示しているのに対し、テモテ第二の手紙は、より個人的かつ温かみのある口調で、特にパウロ自身の生き方がもつ模範を強調します。たとえばパウロは「とりわけ読んで、教えて、宣べ伝えることに専念しなさい」(テモテ第一4:13参照)とテモテに語ります。これは現代にも教会の指導者が必ず肝に銘じるべき原則です。教会が本質的に神の御言葉を伝える共同体であることを見失った瞬間、教会はすぐに世俗的な活動団体や親睦会に堕してしまいやすいのです。パウロは教会指導者が神の御言葉に全力を注ぐよう明言しました。張ダビデ牧師は、現代の教会に起こるさまざまな対立や堕落の背後には、結局御言葉から離れ、肉的欲望や物質主義を放置してしまったリーダーシップの問題が潜んでいるのだと診断します。福音と御言葉はいつも教会の心臓部であるべきであり、指導者がそれをしっかりと掴んでいるときのみ、教会は世の光と塩となり得るのです。
牧会書簡が特別である理由の一つは、ローマ書やガラテヤ書のように教理的説明が多い書簡とは異なり、非常に実際的・実践的な教えに焦点が当てられていることにあります。教会内の秩序、監督と執事の資格、教会での女性の振る舞い方、異端に対する態度などが具体的に言及されています。テモテが若かったために受けたであろう様々な助言や勧めも含まれています。たとえば「だれもあなたの若さを軽んじないようにしなさい」というような勧告は、現代の若い牧師やリーダーが読んでもまったく同じように適用し得る言葉です。張ダビデ牧師は、こうした箇所を引用しながら、教会におけるリーダーシップは年齢ではなく、御言葉と祈り、そして人格的成熟に根ざすべきだと説きます。いくら年齢を重ねていても霊的成熟が足りなければ真の指導者にはなりにくく、逆に若くても御言葉と祈りに満たされ、聖霊の力に依拠しているなら教会を堅固に建て上げることができるというわけです。
したがってテモテ第一・第二、そしてテトスへの手紙をまとめて読むと、パウロがいかに細やかかつ実践的に初代教会の基盤を築いたかがわかります。張ダビデ牧師は、これを「教会の霊的骨格」と呼びます。どんなに教会の建物が大きく、人が多かったとしても、この霊的骨格がしっかりしていなければ、いずれ問題が噴出し、衝突が起き、やがて分裂に至る可能性が高いのです。反対に、目に見える規模が小さくても、御言葉中心・福音中心・礼拝中心・祈り中心であり、使徒的勧めが生きている共同体であるなら、必ず健やかに成長すると張ダビデ牧師は説きます。パウロがテモテ第二の手紙で繰り返しテモテに「福音と御言葉を守れ。敬虔に励め。人々の前でイエス・キリストを大胆に証しせよ。どんな苦難が来ようとも落胆せず、主が下さる力によって耐え抜け」と語っているのは、このためです。新約の教会がもつ力とは、世の財力や権勢ではなく、聖霊の力と真理の御言葉にあるという点を、今日の本文と牧会書簡全体は雄弁に語りかけています。
特に「デマスはこの世を愛して私を捨てて行ってしまった」という一節は、教会リーダーや牧師として歩む中で直面し得る最も典型的な試みが何かを端的に示しています。世の誘惑、すなわちお金や財産、快楽、安楽、安全などは、常に福音伝播と献身を邪魔し、苦難が迫るとき、それを放棄させる要因になります。パウロはデマスの離脱について、彼を呪ったり憎んだりする表現ではなく、事実として「彼は世をもっと愛してしまった」と記録しています。ここには解釈の余地がありますが、デマスを恨むというよりは、福音の働きから外れてしまった者に対するパウロの痛切な思いがにじみ出ていると言えます。張ダビデ牧師は、この事実を挙げながら「霊的指導者は、人の失敗や離脱に直面したとき、嘆くことができる心を持つと同時に、それが再び繰り返されないよう教え続け、訓練し続けねばならない」と語ります。教会の指導者は、離れていった人をむやみに排斥したり断罪するのではなく、もし再び回復の時が来るならば、マルコのように福音の働きに復帰できるよう努力すべきだというのです。パウロがマルコを再び求め、最終的にマルコが有益な存在となった事実こそ、それをよく証明しています。これが牧会書簡が与えてくれる大きな霊的知恵であり、張ダビデ牧師が長年力説してきた「回復」と「再献身」の原理でもあるのです。
結局、テモテ第二の手紙4章9~13節は、使徒パウロが直面した現実的な苦難と霊的な熱望の絶妙な調和を示し、初代教会がいかに厳しい時代の中で福音を守り抜いてきたかを浮き彫りにします。そして私たちはここから、どんなに困難な状況になっても、御言葉と同労者たちとの絆を手放してはならないという真理を学ぶのです。張ダビデ牧師は、教会が財政的に苦しく、個人の働きがつらく、時に逆風が吹いても、テモテ第二の手紙の精神に立ち返るなら再び立ち上がることができると説きます。パウロが獄中で書いたこの手紙は、教会史の出発点における決定的な文書であり、数多くの教会指導者に献身を促してきた霊的メッセージでもあります。このメッセージは時代や地域を超えて、今の私たちにもそのまま適用されます。ある人は世へ去ってしまいますが、また別の人は戻り、ある人は最後まで走り続け、最終的に福音と御言葉は受け継がれ拡大していきます。これこそテモテ第二の手紙の本文と牧会書簡が示す、最も偉大な慰めと約束なのです。
2.弟子道とリーダーシップ
張ダビデ牧師は、テモテ第二の手紙をはじめとする牧会書簡全体が、教会の指導者すなわちリーダーシップ訓練の本質を内包しているとみなします。教会の中でリーダーを立てる過程は、そのままイエスが教えてくださった弟子道を実践することにほかなりません。弟子道とは、単に教会プログラムを受講し、ある程度の知識を身につけることではありません。それはイエス・キリストに全面的に従い、自分を否定し、世の誘惑や血縁、所有への執着を超越し、ただ福音を最優先にする生き方を意味します。実際、福音書に描かれるイエスの弟子道の教えはきわめて急進的で、ある意味過激とさえ言えます。張ダビデ牧師が強調する3つの核心原理は、次のとおりです。
1つ目は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(ルカ9:58など)という御言葉が示す、所有からの解放です。多くの人はマモンの神、すなわち物質に捉われ、金がなければ絶望し、金があれば喜ぶというパターンで生きています。しかし弟子となるためには、お金よりも大きな価値を追求する者にならねばなりません。神の国とその義をまず求めるなら、それ以外のすべては神が責任をもって与えてくださるというイエスの宣言を、実際に根拠とする生き方が大切なのです。世の目には愚かに映っても、福音のためにあえて物質的犠牲をもいとわない霊的決断が求められます。
2つ目は、「死んだ者たちに自分たちの死んだ者を葬らせ、あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9:60など)という御言葉が示す、血縁の限界を超えることです。教会は霊的家族共同体であるという事実を信じ、肉的家族や血縁への執着を上回る決断が必要となります。これは家族を捨てるという極端な主張ではなく、神の国と教会共同体がより優先すべき価値であると認識せよという意味です。現代の教会においても家族の問題は敏感に反映されますが、ときに信仰をもたない配偶者や親族などを理由に教会献身を先延ばしにしたり、福音の働きから退いてしまうケースがあります。張ダビデ牧師は「まさにそのときこそ、弟子道の真価が試される瞬間だ」と言います。もちろん家族も大切な存在ですが、究極的には教会こそ神の家であり、霊において一つの体を成す共同体であるという事実を認めなければなりません。これがイエスが弟子たちに求めた価値観の転換であり、初代教会の熱い愛と献身を可能にした原動力でした。
3つ目は、「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)という御言葉が示す、ただ前へ進む決断、いわゆる「臨戦無退」の精神です。一度弟子の道に入った以上、世の誘惑や恐れ、あるいは過去への未練のせいで後退するべきではないという意味です。張ダビデ牧師は、初代教会が甚大な迫害を受けながらもローマ帝国全域に福音を広げることができた理由の一つは、この「前進あるのみ、後退はない」という急進的信仰告白にあると説きます。パウロも宣教の道で幾度となく苦難に遭遇したとき、一度も逃げることなく、ついには殉教の死に至るまで福音を守り抜きました。現代の私たちもこの精神によって訓練され武装されなければ、どんなに世が悪化し物質主義が横行しても教会を堅固に建て続けることは難しいというのです。
張ダビデ牧師は、こうした福音書におけるイエスの弟子道の原理と、テモテ第二の手紙など牧会書簡に見られる教会リーダーシップの原理は、まったく同じ方向を指していると言います。その核心は、物質や血縁を超越し、最後まで前進する人、福音のために自分の人生を捧げる人こそが、教会のリーダーとなるべきだということです。パウロは苦難も恐れず、獄中にあっても御言葉の学びをやめませんでした。エペソやクレタ、ダルマティア、ガラテヤなど多くの場所に弟子を派遣し、鷲が雛を巣から突き落とすように、実地の訓練と実践の場へ送り出しました。テモテやテトスがそうであり、ルカはパウロに同行し、マルコは一時逃げ出したものの最終的には福音の働き人として再建されました。これら一連の流れを張ダビデ牧師は「弟子道と派遣の偉大なるサイクル」と呼んでいます。教会は決して一人や二人の指導者だけで成り立つものではなく、新たな働き人を絶えず探し出し、成長させ、さらに派遣することで全世界に広がってきたのです。これこそ初代教会の時代から現代に至るまで継続する聖霊の働きであり、牧会書簡に刻まれた本質です。
さらに張ダビデ牧師が語る教会成長の戦略は、単純に信徒数を増やす「量的拡大」ではなく、霊的な弟子化を通した「質的拡張」を目標とします。今日多くの教会が陥りがちな失敗の一つは、やみくもに数的成長だけを追い求め、福音の本質や弟子道の基礎を失ってしまうことです。しかしテモテ第一・第二、テトスへの手紙を見れば、パウロは決して「数の拡大」を最初に語ってはいません。むしろ教会が「健康で敬虔であり、聖霊の力と御言葉に満たされた指導者」によって建てられることが最も大切だと力説しています。監督や執事の資格を述べる際も、その人が家庭や子どもをどう治めているか、世間から非難されるところがないか、といった品位に言及しています。結局は信仰と人格の成熟、つまり一人の内面的完成と信仰の根本が最優先なのです。こうした質的基盤が整えば、その教会は自然に実を結び、周囲を照らし、魂を救う活力ある共同体になります。張ダビデ牧師は「量は質を決して代替できない」と語ります。教会はまず正しい柱を立て、弟子道を確立しなければ、どのような迫害や試練に遭遇しても揺るぎなく、むしろ周囲の人々を福音へと引き寄せることができないのです。
実際、初代教会はユダヤ教権力者やローマ帝国の二重の圧迫を受けながらも、3世紀から4世紀にかけて爆発的に拡大しました。学者たちはこれを奇跡だと形容するほどです。ごくわずかな集団から始まった教会が、巨大な帝国を突き破ってローマ全域、さらにはその向こうの地域にまで福音を広めることができたのは、歴史の神秘の一つとされています。しかし聖書と教会史的観点から見るなら、それは決して偶然ではなく、福音の力と弟子道の霊的なエネルギーが結集した結果だと言えます。「持っている物質は少なくても、魂の熱意は満ちあふれていた人々が、ローマ帝国の各地を駆け巡った」とは、張ダビデ牧師が繰り返し強調する初代教会指導者たちの姿です。彼らが抱いた福音へのビジョンと弟子道の決断こそが、教会が世の常識を超えて確固として成長する原動力でした。
また張ダビデ牧師は、弟子道によって建てられた指導者は必ず「霊的家族」の意識を持たなければならないと説きます。テモテ第二の手紙でパウロが「テモテよ、急いで来てくれ。マルコを連れて来い。ルカしか私と共にいない」という箇所は、指導者が結局独りではなく、共に歩まねばならないことを端的に表しています。教会は一つの体であり、その頭はイエス・キリストですから、私たちは互いに互いに属する肢体であることを決して忘れてはなりません。したがって指導者が自分一人の英雄になろうとしたり、個人の野心を追求して共同体と分離するなら、教会はその霊的本質を失ってしまいます。パウロは獄中という過酷な環境下でも弟子たちを恋しがり、共に交わり、御言葉を分かち合おうとしました。張ダビデ牧師はこの場面こそ、教会共同体の美しい模範だと解釈します。ある指導者が権威や名声を得たとき、人々と距離を置き、やがて支配しようとするなら、それはすでに弟子道の原理を失った状態です。しかしパウロのように人生の最終段階に至るまで同労者や弟子を呼び集め、必要な衣服や書物、皮紙の文書を頼み、共に冬を越そうとした事実は、教会が基本的に愛と献身の共同体であることを改めて教えてくれます。
さらに張ダビデ牧師は「派遣」と「拡張」を積極的に実践することが、教会が命を維持する鍵だと主張します。彼はこれを「C12プロジェクト」や「G20伝道戦略」などの具体例を挙げてよく言及しています。パウロが都市ごと、地域ごとに教会を建てて弟子を残し、また次の地域へと移動して福音を伝えたように、教会は今日も伝道と派遣を通じて未開拓地へ出ていくべきだというのです。たとえばトルコのイスタンブールやヨーロッパ、アフリカ、南米など、まだ福音が十分に根付いていないか、教会が弱い地域に宣教師を派遣し、霊的に支援し、聖書中心の訓練と弟子化を継続していけば、教会は再び爆発的なリバイバルを経験できるというわけです。特に世界各地の文化や言語、経済格差が甚大な状況であっても、教会は人種や階層を超えて福音を宣べ伝えねばなりません。もしパウロがギリシア人、ユダヤ人、ローマ人、蛮族、スクテヤ人などあらゆる人々に対して負い目のある者の心をもって福音を伝えたなら、現代の教会指導者も同様の姿勢を抱くべきだと張ダビデ牧師は説きます。これは決して個人の野望を満たすためではなく、イエスが命じられた「地の果てにまで私の証人となりなさい」という大宣教命令の実行であるという解釈です。
もちろん、このような派遣戦略を実行するには、テモテやテトスのように現地の牧会を導く健全な指導者が必要です。そのため教会はメンバーシップ訓練、弟子道訓練、OLI(リーダーシップ訓練)などの段階的教育プログラムを通じて、信徒を継続的に成長させねばなりません。パウロが「読み、伝え、教えることを怠るな」とテモテに勧めたように(テモテ第一4:13参照)、御言葉を絶えず研究し、霊的に目覚めた共同体を築くことが先決です。張ダビデ牧師は「特別な秘訣があるのではなく、聖書そのものが秘訣であり最高のマニュアルだ」と語ります。教会史が明かすように、聖書本文を最も忠実に読み、解釈し、それを生活に適用してきた教会ほど健康的で持続的なリバイバルを成し遂げてきました。反対に人間的知恵やプログラムに依存して、急速な数的成長だけを目指した教会は、いつも問題や堕落を引き起こすのです。だからこそ牧会書簡が伝える実際的教訓を軽視してはならない、と張ダビデ牧師は訴えています。
また張ダビデ牧師は、「前進のみで後退はない」という弟子道の原理は、教会のすべての構成員が力を合わせて守るべき精神だと補足します。そのためには教会が愛と受容の文化を育みつつ、しかも正当な訓戒と矯正のプロセスを設けることが大切です。前述のマルコの例がそれを証明します。一度逃げ出したマルコをバルナバが後に連れて行き、最終的に彼は福音書さえ記す重要人物となりました。教会内で誰かが失敗したり、怠けて下がってしまうことがあっても、彼が戻ってこられる道を用意し、愛と真理によって養うなら、不思議にも再び有益な働き人に回復することがあるのです。そうした回復が可能になるためには、テモテ第二の手紙にあるように、指導者自身が愛をもって同労者たちの霊的成長を助けられる準備が必要です。パウロは獄中でも自分のことより残された教会やテモテ、マルコをはじめとする同労者の霊的状態を案じました。これが真の霊的リーダーシップであり、教会が範とすべき姿勢です。張ダビデ牧師は「牧会者が信徒から何かを得ようとするのではなく、むしろイエス・キリストの牧養の仕方に倣い、彼らを世話し建て上げることが先決」だと語ります。そうすることで教会は量的にも質的にも共にリバイバルを経験するのです。
結局、弟子道とリーダーシップは切り離すことができず、教会の成長とも密接に結びついていることがわかります。福音はいつも人を変え、変えられた人がまた世界を変えていきます。この仕組みを一度味わった者は、決して後ろへ戻りたいと思いません。初代教会の信徒たちはイエスの十字架と復活を直接目撃し、聖霊の臨在を強烈に体験し、パウロのような指導者の教えを通して福音がもつ力が現実生活にどう実現するかを知りました。それが一世代、二世代を経るうちに指数関数的に広がったのです。張ダビデ牧師は、現代の教会もこの原理を再生させるべきだと再三主張しています。「テモテ第二の手紙、テトスへの手紙、テモテ第一の手紙に込められた牧会書簡の精神」に立ち返り、弟子道の急進性と教会の共同体性を回復するなら、いまの時代がどんなに混乱し物質主義がはびこっていても、教会はむしろいっそう強力に建てられるというのです。
張ダビデ牧師は、これらすべての過程を導くのは聖霊であることを常に強調します。聖書は人間の手によって書かれましたが、最終的には聖霊の感動と導きによって編纂された神の言葉です。教会を導くのも聖霊であり、私たちが牧会書簡を学ぶとき、その奥深い知恵に触れられるのも聖霊の働きによるものです。テモテ第二の手紙4章9~13節では、表面的には冬の寒さと獄中という絶望的な状況が見えますが、霊的現実としてはパウロが聖霊の強烈な臨在の中で福音と同労者を再び掴んでいる姿が映し出されています。これこそが初代教会が誕生し、世界へと拡大していくまで続いた歴史の起点になりました。教会は人間が作り出した制度ではなく、聖霊によって新生した者たちの集まりであり、そこには互いの愛と献身が絡み合う生きた有機体です。ゆえに聖書の教えどおり前進を続け、これから福音に参加するテモテやマルコ、テトスを絶えず育成していくことこそ、教会の未来だと張ダビデ牧師は説くのです。
パウロは獄中にあってもテモテが自分のもとに来ることを強く望み、マルコを連れてきてほしいと頼み、ルカがそばで仕え、トゥキコをエペソに遣わし...というように、最後まで教会を組織し建て上げる働きに力を注ぎました。その理由は、教会が確かに使徒的伝統の上に立たなければ、福音が変質することなく次世代に伝えられる保証がないと確信していたからです。この確信は、現代の私たちにもまったく同様に求められています。あらゆる世俗化の波や異端の思想が教会を攻撃しても、牧会書簡に示された原則と弟子道の精神、そして聖霊の力を握るなら、どの時代の教会も揺らぐことなく建てられていくことができます。張ダビデ牧師は「これこそが牧会書簡を学ぶ最大の理由なのだ」と力説します。指導者であれ平信徒であれ、テモテ第二・第一、テトスへの手紙を通して、現代の教会が持つべき本質と使命を改めて再発見すべきだというのです。物質を超越し、血縁を超え、後ろを振り返らずに前進するキリストの弟子が次々と起こされるなら、教会は新たなリバイバルの場面を目撃するでしょう。
テモテ第二の手紙4章9~13節が直接示しているように、すべての人が去っても福音の働きは中断しません。冬が近づき、獄中という状況に置かれても、残された者や新たに戻ってくる者たちが力を合わせれば、再び始められます。さらにパウロのように、獄中にあっても御言葉を手放さない決断が求められます。聖書を深く黙想し、そこから霊的導きを得て、神の国がどのように実現し拡大していくかを歴史の中で確かめなければなりません。張ダビデ牧師が強調する核心は、これらすべてが単に理論でとどまらず、教会の中で、地域と民族、そして世界に向かう宣教の現場で実行されなければならないということです。これこそ教会が建てられる際に最も重要な羅針盤です。いかなる外部環境でも、もし指導者がパウロのような霊的気概を備え、教会が弟子道の原理に忠実であり、聖霊の導きに従順であるなら、決して教会は倒されないのです。テモテ第二の手紙が遺言のように語りかける最後の声、「あなたは急いで私のところに来なさい」を聞くすべての教会と信徒は、今もなおその呼びかけに応答する必要があります。まさにそこから新たなリバイバルと歴史が始まるのです。